小泉純一郎氏が新党を作るのであれば、私は自民党を離党して参加していただろう。
私の大義は、小泉改革をバックアップすることにしかなかった。
その小泉純一郎氏が私達の期待を裏切った。
すべてを投げ出し、よりによって自分の次男を後継指名した。
親馬鹿を絵に描いたような出来事だった。
これで、小泉氏に選挙の応援を頼む気が失せた。
その直後、麻生内閣で引き続き法務大臣政務官に任命された。
総裁選挙では相手方の小池百合子選対にいたのだから、麻生総理のめがねにかなっての登用というわけでは毛頭ない。
組閣直後に解散、という流れだったので、福田改造内閣の人事をそのまま踏襲した、ということである。
私もあえて就任を拒まなかった。
しかし、本来は、自分にどんな仕事が期待されているのかを確認して就任の可否を答えるべきだったかも知れない。
私が自分の政治生活を振り返って反省するとすれば、あの時に私はチャンスを失ったと思う。
本来の私であれば、もっと自由に発言し、行動したはずだ。
役職など中途半端に受けない方がいい。
それが私の結論だ。
麻生内閣は、結局解散の大義もなく、解散のタイミングも掴めないままずるずる続いてしまった。
この間、私は、内閣の末端に座っていたために自由な言論を封じられてしまった。
幸い法務省では自分がやるべき仕事が沢山あったので、どうにか任期を全うしたが、自分がフリーな立場だったらもっとはっきり政権批判をしていただろうと思う。
その当否はともかく、政治家らしい立ち居振る舞いが出来たはずだ。
中川秀直氏もチャンスを逸した一人である。
いまさら町村派から離脱することを宣言しても、中堅若手が大量に落選してしまった現状ではたいした影響力を行使することは出来ないだろう。
みんながチャンスを逃してしまった。
そういう一年だった。
後悔先に立たず。
こういうときのための一言、である。
今日は、衆議院選挙から丁度2ヶ月目。
もうあれから1年ぐらい過ぎてしまったような気がする。
いやはや。
さて、チャンスを失ったことをいつまでも嘆いてもいられない。
次へのスタートに向けて新たな挑戦を始めるときである。
何をなすべきか。
私だったら、この際自民党との訣別を宣言する。
曖昧路線を歩んでいたのでは、民主党を凌駕することなど不可能。
そう思うからである。
そろそろ渡辺喜美氏の出番だろう。