江藤新平が平成の時代に蘇る | 早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

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弁護士・元衆議院議員としてあらゆる社会事象について思いの丈を披歴しております。若い方々の羅針盤の一つにでもなればいいと思っておりましたが、もう一歩踏み出すことにしました。新しい世界を作るために、若い人たちとの競争に参加します。猪突猛進、暴走ゴメン。

おはようございます。


いよいよ裁判員制度スタートの日を迎えました。

同時に改正検察審査会法、被疑者国選弁護人制度もスタートします。

ここまで変わったか、ということを日々実感することになるでしょう。

法が支配する、ということがどんなことなのか、私たちは身をもって知ることになると思います。


悪は見逃さず、不正義は許さない。

できる限りの正義を実現する。

弱い立場の者を護る。


社会正義の実現と基本的人権の擁護。

戦後間もなく制定された現在の弁護士法に謳われた精神が、60余年の時を経て今司法のあらゆる場面で蘇ろうとしている。


私はそう思っております。


一番早く、かつ、一番大きく変わるのが弁護士でしょう。

今日から、裁判員裁判をしっかり念頭においた国選弁護士の選任を始めなければなりません。

勿論被疑者のための国選弁護士の選任も裁判員裁判を意識したものになります。

すでに昨年から犯罪被害者のための国選弁護士制度もスタートしております。


法の正義を担う弁護士が社会の期待に応えることが出来るか。

自分の依頼者である被疑者や被告人のみを意識し、弁護士であるという特権的地位に安住してきた弁護士の活動が、法曹の同僚である裁判官や検察官の批判の目に晒されるだけではなく、今度は裁判員という一般の国民から無作為で選ばれた裁判員の批判にも晒される。

国民が参加する、ということは、そういうことなのです。


医療の世界の裏話を先日致しました。


法曹の世界でも同様のことがあります。

ああ、この人は勉強していない。

記録も読んでいない。

アレ、今頃になって被告人と打ち合わせをしているよ。

この弁論、たしか前に聞いたよ。


まだまだ言いたいことはあります。


弁護士が社会の期待に正しく応える存在になっていくか。

弁護士界は、これだけの司法改革に耐える、質と量を確保しているか。

それが問われております。


司法改革の全容を捉えないで、枝葉末節にとらわれ、裁判員制度の運用についての不安を政局に利用しようとする国会議員の方々は、多分裁判員制度がもたらす今次の司法改革の圧倒的な力、破壊力をまだ実感できないのだと思います。

国民が裁判に参加すれば、次に起こることは法律を作る国会を改革しよう、ということです。

役に立たない弁護士や検察官、裁判官はいらない。

そういう声は、いずれ、役に立たない国会議員はいらない、という声になってくるはずです。


国民が裁判を肌で理解するようになれば、必ず声を上げるはずです。

いいものはいい、悪いものは悪い。

専門家に任せればうまく動くはずだ、という思い込みが、日本のあらゆる制度に対する無関心、他人任せになっていました。

これからは、あらゆる場面で国民の常識、常識が反映されなければならない時代です。


新しい時代。

大きな和を作らなければいけませんね。


さて、現在弁護士の中で上がる反対の声は、どちらかというと司法制度改革全体を潰したい方々の声です。

反戦運動や学生運動の闘士など大変なアジテーターの方々が揃っておりますので、その言葉だけ聞いているとそうか、と思ってしまうこともあるでしょう。

最高の弁論術を駆使して司法改革反対運動を展開しているのですから、何も知らない方々がこれに乗せられてしまうのはやむを得ない面があります。

しかし、くれぐれも角を矯めて牛を殺す、ようなことがありませんように。


それにしても、よくぞここまで来たものだ。

そう思います。

平成の時代に、日本の司法の父と言われた江藤新平が蘇った。

私は、そう思います。


さて、平成の江藤新平は誰だったのでしょうかね。