日本の社会主義 | 早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

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弁護士・元衆議院議員としてあらゆる社会事象について思いの丈を披歴しております。若い方々の羅針盤の一つにでもなればいいと思っておりましたが、もう一歩踏み出すことにしました。新しい世界を作るために、若い人たちとの競争に参加します。猪突猛進、暴走ゴメン。

日本は、決して自由放任の国ではない。

個人主義の国と思っても間違える。

だからと言って、全体主義の国では毛頭ない。


この日本の基本理念を突き詰めると、何か。

最近とみに私の心の内でそう問う声が大きくなっている。


かつてソ連の政治家が、日本は社会主義の国だ、と言っていた、という記事を読んだような記憶がある。

社会主義を標榜するソ連よりも遥かに社会主義の国、それが日本だ、ということだ。


国家を前面に出すと、国会社会主義になる。

これはナチズムになる。

しかし、日本では国家はもはや前面には出ない。


企業への忠誠心、従属度が高いときは、社会主義ではなく、会社主義。

しかし、年功序列と終身雇用が崩れ始めたら、いつまでも会社主義というわけにもいかない。


かつて家族の絆が強かった時期は、家族社会主義、地域の絆が強かった頃は、地域社会主義。

ところが、均分相続制度と少子化の流れの中で家族の絆が弱まり、さらに戦後の経済発展の過程で地域コミュニティが崩壊してしまったので、どうも家族社会主義も地域社会主義もはやらない。


戦後64年の歩みの中で、日本が大きく変質してしまったことは、間違いない。

このことをまず私たちの共通の理解とする必要がある。


その上で、これからの日本はどうあるべきか。


日本は、昔から和の国である。

社会的な弱者を見捨てることが出来ない国柄だ。

とても、働かざるもの食うべからず、とか、弱肉強食という考えを受け入れられるような社会ではない。


個よりも公を優先してきた。

自我よりも、融和とか他人との協調を大切にしてきた。

最近は余りにも個人主義とか自由主義の主張が強かったが、ふと気づいたら、やはり公を大切にしなければならない、集団の利益や社会全体の調和を大事にしなければならない、ということになった。


当然のことだと思う。


だから、わが自由民主党も、単なる「自由民主」ではなく、「自立と共生の共生主義」、「新しい社会主義」がどうもふさわしそうだ。

そう書いてみた。

しかし、さすがに「社会主義」では誤解される。

それでは、「共生主義」か。


そう、問題提起してみた。

しかし、それではぴったり来ない。


単なる共生では、単に凭れあっているだけの観がする。

価値観が欠落している。

かつて、血気盛んな弁護士の仲間で法曹政治連盟、弁護士政治連盟を立ち上げようとしたときに打ち上げたのが、「フェアネス」「公正な社会」という理念だった。


倫理観に貫かれた社会。

決して濫りに人を甘やかすことのない社会。

そして、あくまでも本当の弱者に対しては優しい社会。


それが、「フェアネス」「社会的な公正さを尊重する社会」である。

今になって、これこそがこれからの穏健保守の歩むべき道筋ではないか、と思えてきた。


なお、私が今、そういう問題提起をするのは、この通常国会に提案される予定の農地法改正法案が原因だ。


所有者が不明の農地を他人が耕作できるようにするためには、どういう法制が考えられるか。

これがこの問題のヒントである。

私有財産制を絶対視する立場からはおよそ考えられないような知恵が考え出され、これが成立する可能性が高い。

ほう、こんなことが出来るのか。


そういう目で日本の農政の歴史を見ると、日本が改めて「社会主義」の国であったことが分かった。

「労働者社会主義」ではなく、「農業社会主義」。

私にとって、「目から鱗」の新発見である。


皆さんのご意見をお聞かせ頂ければ、幸いだ。