若い人たちに、どうしても読んでおいて貰いたい一冊を発見した。
「悲しい統計によれば、敗戦の日から11月18日までに、東京では、上野、四谷、愛宕の3警察署の管内で150人余の餓死者を収容した。また、同時期の、神戸、京都、大阪、名古屋、横浜の5都市では、733人の餓死者が出たという。もうひとつ統計をあげれば、敗戦の日から10月までに失業者は448万人(男女の合計)であったという。そこへ内地復員者761万人(軍人と軍属)、在外引揚者150万人が加わり、総計1359万人が住居と職場と食いものを求めてさまよっていたのである。」
昨日、新神戸の駅で買った半藤一利の「日本国憲法の200日」(文春文庫)の一節である。
リンゴはなんにもいわないけれど。リンゴの気持ちはよくわかる....
「そう歌った並木路子は、松竹歌劇団の新人である。3月10日夜の空襲で、みずからも火に追われて隅田川に飛び込む羽目になり、危うく溺れるところを救助されたのであるという。一緒に川に飛び込んだ母は遺体となって浮かんだ。父も南方で殉職氏死、次兄は千島列島で戦死。
「並木君、君に明るく歌えというのはつらいのだが......」と作曲家の万城目正がいったとか。」
そう、半藤は書いている。
そういう時代に、私は長崎県の佐世保市で生まれたのである。
そのことを私は、これまでずっと封印してきた。
なんで、早川君は政治家なんかになったの。
恩師の先日の問いかけが段々重くなって私に迫ってくる。
私が政治家になったのは、戦争ですよ。
戦争の体験が、私の原体験になり、その後の私の生き様を決定づけてきたんですよ。
今、そのことに気が付いた。
(私の父親は、戦争の時代のことを語らなかった。
戦争の深い傷跡を抱えていたようだ。
私は、小学校の2年生の2学期まで佐世保市の保立小学校に通ったが、住まいは八幡神社の側を流れる疎水の川べりのバラックの一つだった。
戦争や戦災で家族や家を失った戦争孤児が、周りには大勢いたのである。
だから私は、政治家になった。
新たな戦争の被害者を出さないために、私は、昔から、政治に携わることを自分に与えられた使命のように感じてきた。
少々くどくなってしまったが、後日のために、これだけは書き残しておきたい。)