改めて安心・安全・信頼の国づくり/今回の参議院選挙は私自身の選挙である | 早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

弁護士・元衆議院議員としてあらゆる社会事象について思いの丈を披歴しております。若い方々の羅針盤の一つにでもなればいいと思っておりましたが、もう一歩踏み出すことにしました。新しい世界を作るために、若い人たちとの競争に参加します。猪突猛進、暴走ゴメン。

平成8年の衆議院選挙に際し自民党の公認候補に選ばれて急遽作成した私のパンフレットのスローガンが、安心・安全・信頼の国づくりであった。


私が、安心・安全を謳ったのは、平成7年1月に阪神淡路大震災が発生し、さらに同年3月20日オウム真理教による地下鉄サリン事件が起き、国民の間に自然災害やテロ犯罪に対する不安が募っていたからだと思う。


細川、羽田の八頭立て連立政権から、自社さ連立の村山内閣に変わった直後の日本にとって、国政の舵取りは困難を極めたであろう。


まさに国難が次から次にわが国を襲ってくる時期に、社会党の党首であった村山氏を総理に担ぎ出し、やがて自民党を政権の中枢に戻した政治家は、日本を国難から救った歴史的役割を担った大人物と言えるかもしれない。


当時の自民党の幹事長が森元総理である。(と思っていたら、どうも違うようだ。加藤紘一幹事長、野中広務幹事長代理の執行部最強メンバーと当時の清和会の事務総長の森元総理の3人が社民党村山党首担ぎ出しの立役者だったようだ。)


自民党の語り部を引き受けているその森元総理を招いて、古川俊治氏の埼玉県第4選挙区総決起大会を、7月3日新座のベルセゾンで開催した。

800名を超える方々(ベルセゾン側では850名と言っているようだ。なお、主催者発表は約1000名)が駆けつけ、古川氏に応援のエールを送った。


現役の慶応大学医学部の教授である古川氏は、外科医として国民の健康を支える第一線にいる医師である。

弁護士でもある。


こういった方に、これからの国政を託していきたいと思う。

これまでは県会議員の指定席のように扱われていた参議院議員の候補者に古川氏にような新人を自民党の公認候補に擁立することが出来るようになったことが、自民党が古い自民党から新しい自民党に生まれ変わってきた証拠である。


候補者の公募を、安倍総理が自民党の党改革実行本部長を務めていた時代から推し進めてきた。

古川氏が、まったく政治経験が無いにもかかわらず自民党の公認候補に選ばれたのは、まさに候補者公募の成果である。


改革を後戻りさせないためにも、公募による候補者は、全員、参議院に送っていかなければならない。

万一、公募候補者が落選するような結果になってしまえば、候補者公募から外され、あるいは候補者公募に参加できなかった県会議員から、それ見たことか、自分たちに候補者の選定を任せないからこんな結果になる、と言われてしまう。


現に、県会議員の中では、執行部に叛旗を翻し、公募候補が当選できなければ執行部の責任だと、今から手ぐすねを引いて待っている、と言われる県会議員もいる。

わが埼玉県も、他の県と同じように複雑な選挙区事情を抱えている。


しかし、候補者本人はそんなことは知らない。

新人は、どこの世界でも初々しく、純情である。

その高い志を、最後まで貫徹させなければならない。

その尊い志を、政治の汚濁に染まらせたり、挫けさせてはならない。


マラソンをこよなく愛し、登山を趣味とする古川俊治氏は、体は小さいが、大きな闘志の持ち主である。

どんなに逆風が吹いても、どんなに困難な道のりであっても、最初の目標を見失うことなく、最後まで自分のペースを守って、ゴールまで走りぬいてくれると期待している。


良識の府に相応しい候補者を、この埼玉から擁立することが出来たのは、私たちにとって大いなる誇りである。

自民党は国民の信頼に応えることができる政党に変わった、と国民から評価していただけるような結果を出していかなければならない。


平成8年当時、私が信頼の国づくりを私自身の政治課題として掲げるようになった理由が、今となっては分からない。

しかし、国民の信頼を失っては国政の一翼を担う資格が無いことは、現在でも十分自覚している。


この度の参議院選挙は、私自身の選挙でもある。

自民党が国民の信を得られなくなったときが、私が、国政から離れ、市井の一弁護士に戻るときである。