『小澤征爾よ永遠なれ』 | グルヒロのすすめ

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『小澤征爾よ永遠なれ』

生きている以上いつかは終わりがやって来る。それが突然の時もあるし、宣言をされてからのこともあるし、近い将来だと思いながら生きていることもある。小澤征爾さんは2024年2月6日心不全のため死去された。88歳であった。2010年に食道がんの手術を受けたころからその日が近いことを感じていたにかも知れない。

小澤さんは世界中のオーケストラと共演してきた。シカゴ交響楽団、トロント交響楽団、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、サンフランシスコ交響楽団、1972年には新日本フィルハーモニー交響楽団を自主運営のオーケストラとして創立させた。1973年に38歳でボストン交響楽団の音楽監督に就任、2020年まで同じオーケストラの音楽監督を30年近く務めた。そして恩師である齋藤秀雄さんの没後10年を偲び世界中から齋藤門下生が集結してサイトウ・キネン・オーケストラを結成する。

そして2002年1月には日本人指揮者として初めてウィーン・フィルニューイヤーコンサートを指揮した後、ウィーン国立歌劇音楽監督に就任した。2006年に体調を崩しウィーン国立歌劇音楽監督としての活動を一時休止。2006年7月にはマーラー交響曲第2番を指揮してまさに『復活』をしたはずだったのだが。

1966年8月に行われたザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを初めて指揮した。この年にはベルリン・フィルにも初登場した。それから1982年8月にザルツブルグ音楽祭、1984年ウィーン芸術祭の開幕公演で指揮をした後、1988年5月ウィーン国立歌劇場にデビューし、チャイコフスキーの歌劇『エフゲニ・オネーギン』を指揮、1989年7月にザルツブルグ大聖堂で行われたカラヤン追悼式典でバッハのアリアを献演した。

1990年に定期公演を始めて指揮、1991年5月には定期で『新世界より』がライヴ・レコーディングされ小澤とウィーン・フィルの初レコーディングであった。1992年1月ウィーン楽友協会で行われるフィルハーモニカ―・バル(ウィーン・フィル舞踏会)で指揮、4月定期公演で指揮、1993年11月日本、韓国、台湾ツアー、1995年5月ウィーン国立歌劇場で指揮、1996年2月定期公演で指揮、1999年6月、2002/03年のシーズンよりウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任することになる。2002年1月、ニューイヤー・コンサートに初登場。12月ウィーン国立歌劇場の音楽監督として最初の新演出上演(プレミア)の歌劇、クルシェネックの『ジョニーは演奏する』を指揮、2004年2月ニューヨーク公演、10月日本公演、2004/05年シーズンもウィーン・フィルと共演した。

小澤さんと言えばボストン交響楽団というイメージが強く、そしてサイトウ・キネン・オーケストラほど小澤さんと和衷協同というのか、意気があったオケは他に見ないような気がする。しかし個人的にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮する小澤さんの音が最も好みだ。透き通るような音が、時には力強く、そしてそれは優しく限りなく美しい。2002年1月日本人指揮者として初めてウィーン・フィルニューイヤーコンサートを指揮した音は、そして小澤さんの姿は永遠に消えることはない。