地球が傷つき悲しんでいるそうです。
私たちが求める豊かで便利な生活のために、犠牲となった多くの自然や生き物たちの怒りであふれているらしい。

文明や経済の発展と引き換えに、自然環境が犠牲となっているのは、今や誰でもわかるほど。

そのために人類が大きな業を背負うこととなったのは容易に想像できます。

撒いた種はいつかは刈り取らねばならない。
刈り取る時がきたのかもしれない。
カルマの解消は生きとし生けるものの法則。

法則ならば従うしかないだろう、それで人間たちの世界に大きな痛みと犠牲がやってきても仕方ない。因果応報なんだから。
甘んじて受け容れるしかないだろう、というのが私の率直な思いです。

が、、、すべてが穏やかで安らかになるように祈りたい衝動が湧いてきます。

例えば災害や紛争が起こり、多くの命が失われた時、

過去の災害や戦争で犠牲になった人たちを思う時、

祈りたい衝動にかられますよね。

だから、例えば震災の日や終戦記念日に追悼式典をひらき黙祷を捧げる。

犠牲になった魂たちが少しでも穏やかに安らかに眠れるように、と。

みんなで祈ることで、魂が救われる、やすらぐことを本能でわかってるんだと思う。

祈りには力があることをみんなわかっているから、ずっとずっと昔から「祈り」という行為を繰り返してきた。

この祈りを自然界にむけて捧げることは大きな意味があるのでは、ないでしょうか。

簡単に許され解消されるものではないほど大きな業かもしれませんが、
少しでも、ほんの少しでも自然界の怒り悲しみがやわらぐのなら、懺悔と後悔の祈りを捧げたいと思います。

自分にしかわからない(思い込みかもですがね)様々なシンクロもあり、この時代に生まれ、この方のブログにたまたま出会い、共感し気づきを得、今を生きている者としての使命かもしれないとさえ思います。

見えないもの、聞こえないもの、想像を超えることをひとりの方がはっきりと断言し行動していることに対して、理解に苦しみ、疑い、恐れ、拒絶、侮蔑、怒りといった感情や反応が湧いてくる人もいるでしょう。

自分なりに総合的な視点から検証しているつもりではいますが、基本単純バカであまり深く考えないので気にしません。
直感に従い感じたままにやるしかないですわ。

懺悔する気持ちを持てたこと、やるだけやろうと思い行動すること、それだけでも価値があると信じます。