十月歌舞伎座 | 和角仁の「歌舞伎座」辛口寸評

和角仁の「歌舞伎座」辛口寸評

グリデン・ワズミの歌舞伎劇評

「三人吉三」

背景も同じ、衣装も同じでありながら、どうしてこうまで感興が薄いのか。黙阿弥の短い一幕で、これほどぞくっとするような面白い演目は少ないと思うのだが、乾いてサラッとした薄味の、実につまらない芝居に終わってしまった。それでも、七之助の「お嬢吉三」の、あの杭に足をかけての「月も朧に」の台詞などは、他優にみられるような野太い声ではなく、男とも女とも分明でない発声があり、そこに僅かな救いを得た思いだった。これこそ、両性具備の半四郎(八代)の不可思議な姿態を「芝居」として舞台上に形象化しようとした黙阿弥の狙いであったのだ。(それにしても、台詞が間伸びしていたのが大の不満。黙阿弥物では、もっとうたうような心地よいリズム感がなくてはならぬ。お坊(巳之助)と「お嬢」の台詞のやり取りも、このリズム感の無さで、感興を削いでいたし、獅童の「和尚」に至ってはオクターブが一つ違うほどの発声で、三者のバランスを著しく欠いている。)

筆者は、この「三人吉三」を数えきれないほど観ているが、そうしたなかではやはり昭和31年2月の歌舞伎座にかかった時蔵(三世)の「お嬢」、幸四郎(八世)の「お坊」、猿之助(初世猿翁)の「和尚」を最高とする。就中、一度しか演じていない時蔵(三世)の「お嬢」には、姿態、発声、共に古風で粘っこくて、しかも両性を混在する妖しい色情を漂わせて圧巻だった。

 

「大江山酒呑童子」

これは十七世勘三郎の依頼で萩原雪夫氏が書いた新作舞踊。これについては、勘三郎(十七世)からかつてこんな話を聞いたことがある。「なにしろね、作良し、振付良し(二世藤間勘祖)、曲良し(十四世杵屋六左衛門)なんですけどね、「松羽目物」っていうことになると、おのずから扮装も決まってしまうんだ。「勧進帳」とか「土蜘」とかのようにね。だからなんとか変化をつけなくっちゃぁいけない。で、ぼくはね、大酒呑みの酒呑童子の酔態の踊りに力を入れて見せることと、「土蜘」の後シテのような凄みのある顔でなく、いかにも呑兵衛らしく「赤ッ面」にしてみようと思ったんですよ」と。

今度の勘九郎の「酒呑童子」も、眼目ともいうべき「酔態の踊り」を器用に踊ってみせてはいるが、やはり祖父や父のそれには遥かに及ばない。更なる精進を望むや切。

 

「佐倉義民伝」

昭和29年4月の歌舞伎座で、初代吉右衛門の「宗吾」と「光然」を観た。(このとき、「甚兵衛」は中車(八世)、「おさん」は歌右衛門(六世)、「幻の長吉」は勘三郎(十七世)、「伊豆守」は幸四郎(八世)、「将軍家綱」は時蔵(三世))。そしてそれは、筆者の数多い観劇歴のなかでも最高の舞台であった。「甚兵衛渡し」の場の幕切れで、激しく吹雪くなか、中車の「甚兵衛」が大きく棹を回して水面に差し、それをジッと見つめている船中の「宗吾」(吉右衛門)がこぶしを強く握って合掌する姿に、観客たちは拍手をすることを忘れ、滂沱と涙を流し、その嗚咽する声が一堂にうねりとなって流れたことを想い出す。体が震えるほどの、これほどの感動的な舞台を、それ以後二度と観ていない。今、「宗吾」を演じて白鸚(二世)を超える俳優は絶無といってもよかろうが、それでも初代吉右衛門とは相当の逕庭がある。

中車(八世)は初代吉右衛門の芸を「至芸」として尊崇し、舞台を離れた日常の生活においてもこの敬意をくずすことはなかったという。そうした心情が「甚兵衛」という「役」を超えて、極めて自然に吉右衛門の「宗吾」に敬意をもって接することが出来たのだと思う。意識的な「神格化」ではなく、どこまでも無意識的に宗吾を「神格化」してみせたのだ。一命を捨て、大きく鉈を振り上げて鎖を切り、水面に棹をさす甚兵衛に、<神>に己れを捧げるもののみがもつ感動的な崇高なる「魂」を感じずにはいられない。

歌六の「甚兵衛」は予想をうわまわる佳演だが、しかし、中車のごとき心情には至らないだけ、かの人には及ばない。(鎖を切る件では、もっと大きくのびあがるようにして切断したい。)

 

「宗吾内」

七之助の「おさん」。白鸚(二世)の「宗吾」の女房を勤めるだけに、かなりの難役であろうと思っていたが、在郷の女房たちへの配慮、子供達への思いやり、そして、「宗吾」への情愛など、地味に、しっかりと演じていたのに驚いた。今月、この人にとっては一番の出来。地芝居の上手な一面をみせた。「宗吾」の白鸚は台詞・仕科共に優れ、とりわけ、妻子との離別の哀しさに涙を誘う。「裏手」では後ろ髪を惹かれるように雪道を去ってゆく「歩み」に巧みな技をみせ、「直訴」では、実直な男の一命を賭して苦難にあえぐ村落を救わんとする「一念」が強く表出されて胸を打つ。他に、勘九郎の「家綱」の品位、高麗蔵の「伊豆守」の恩情に点が入る。(初代吉右衛門のこの時は、「仏光寺」の場も付いていたが、やや足に不自由がありながらも、「光然(吉右衛門)」が数珠を引き裂き、珠を蹴散らし、鬼気迫る様相で花道を駆け抜けて行った件のすばらしさも忘れられない。瘧りのように体が震えて身動きが出来なかった。)

 

「宮島のだんまり」

昔は十一月の「顔見世」で、これから先き、こういう役者たちがこういう役柄で一年を勤めますよ、と観客に知らせた「だんまり」も、今では少ない出演の役者たちを救済するがごとき形で行われているのが何とも悲しい。もっとも、今月に限って言えば、十八世勘三郎に由縁のある若い役者たちの「総出演」で、これはこれでまた、意義のある演目になっている、ともいえようか。

 

「吉野山」

かつて、十八世中村勘三郎と幾度か出演した「吉野山」を、玉三郎が倅の勘九郎(狐忠信)と踊る。が、一言でいえば、玉三郎の「静」の佳演というに尽きる。「出」の件での遠くを見やる目線の美しい流れ、〽︎彌生は雛の妹背仲」の件の艶麗な立ち姿、〽︎人こそ知らね西国の」での裲襠を脱ぎ扇をあしらっての踊りの件など、まさに絶品だ。いずれも「姫」の形でありながらも、哀愁を帯びた「白拍子」の心情を纏綿させているのがさすがである。しかし、こうした玉三郎の卓越した踊りにひきこまれるように、勘九郎もまた、〽︎あら物々しや夕日影」以下の戦物語の件を勇壮に踊ってみせる。

 

「助六曲輪初花桜」

仁左衛門の助六だから、当然、長唄で進行するのだが、観る者にとっては「河東節」で始まらないのは寂しい。「助六」には目に見えない贅沢さ、というものがあるからだ。しかし、そうはいっても、今「助六」を演じるとなれば、仁左衛門を置いてほかにはないだろう。きりっとした男前で、観客の心を蕩かしてしまう「出端」の振り、特に〽︎富士と筑波は」のあたりの傘をあしらっての美麗な形は圧巻だ。和事のイキで演じていながらも、意休への「抜け抜け」の荒事ぶり、また、紙衣になってからの「辛抱立役」も無難にこなす。見事というより他はない。台詞も実に爽やかで、名乗りの「つらね」を並べる件の雄弁術なども傑出している。

七之助の「揚巻」も大役で、立女形としての「貫禄」、それに「美貌」と「伝法」さの三要素を具備せねばならぬ。懸命に演じながらも、花道七三での「酔わぬじゃて」の台詞の、あたりを払う力強さ、意休への「悪態」の重厚な台詞回しなど、美貌ではあるけれども、やはり七之助にはまだ一息足りぬところがある。歌六の「意休」は好演だが、今少しの「厚み」がほしい。江戸和事を志す勘九郎の「白酒売」は、まだ固い。「柔らかさ」が演じられるのではなく、自然とにじみ出てくるようでなくてはならぬ。「満江」は玉三郎、「松葉屋女房」は秀太郎、「門兵衛」は又五郎、「仙平」は巳之助、「福山かつぎ」は千之助。「通人」は彌十郎。