九月歌舞伎座 | 和角仁の「歌舞伎座」辛口寸評

和角仁の「歌舞伎座」辛口寸評

グリデン・ワズミの歌舞伎劇評

「金閣寺」

・ 部分的には感心させられた件があったものの、総じて感興の薄い「金閣寺」であった。特に「大膳」(松緑)と「東吉」(梅玉)との応酬がしっくりしない。

・ 感心させられたのは幸四郎と児太郎。幸四郎の「直信」は、いかにもこの役らしく、台詞にも仕科にも気品のある柔らかさ、愁いなどが纏綿して一番の出来。これで襟をぬいてくれていたら言うことなしの絶品だ。

・ 児太郎の「雪姫」も、「恨みはらさで置こうか!」といって白碌の上でキマる形。花吹雪の中での美麗な立ち姿。更には、鼠を払い、坐った形で右袖を上げてキマる件など、いずれも愁いを含み、不運な姫らしい悲愴感を見事に漂わせて観る者を驚かせる。が、しかし、こうした時代物の「姫」役には、「翳り」のようなものは確かに大切な要件だが、一面、ふっくりとした霑のある艶麗な味わいも流れねばならぬものであり、それが児太郎には以後の大きな課題となる。(花道の引っ込みでの、あの刀身で髪のほつれを直す件なども、あんなに急がずに、もっとゆっくりと色気と愛嬌をみせてほしかった)

・ こうした幸四郎と児太郎の好演に比して、松緑(大膳)や梅玉(東吉)には言うべきことが少なくない。「柄」からいえば、二人とも、ぴたりとはまっているものの、台詞があまりにもひどすぎる。松緑には太い声量があるのだが、梅玉には、この役らしい透き通るような、凛とした声がない。低く、イントネーションのない平板な発声で、爽やかさがまるで感じられぬ。それが最も特徴的に現れている件は、大音声で大膳が「何が、何んとォ!」という台詞(松緑の悪癖で「とォー」と延ばすべきところを延ばさず、「とォーッ」と終わりの部分をグッと止めてしまうのだから全く締まらない。)に応じて、「愚かや大膳」という東吉の台詞が続くのだが、ここでは大膳の発声に負けぬほどの凛とした台詞がなくては芝居にならぬのだ。にも拘わらず、これまた低音平板、これでは到底、時代物の代表ともいうべき「金閣寺」にはならぬ。

・ 大膳の二度めの「出」では、もう少し癇筋を濃くしたい。せっかく立派な大きな顔をしているのだから、勿体ない。

・ 彌十郎の「軍平実は正清」、亀蔵の「鬼藤太」は台詞がしっかりしているのが何より。

・ 復帰の福助の「慶寿院尼」。心配をかき消すような明瞭な台詞回しで安心したが、少し「若作り」ではなかったか。

・ この「金閣寺」、直信が花道を去ってからは雪姫の独壇場となるのだが、児太郎の思いのほかの好演も、実は谷太夫の「語り」の良さに支えられているところが多いと思う。

 

「鬼揃紅葉狩」

・ 初演時こそ「更科の前・鬼女」は歌右衛門(六代目)であったが、二回め以後はほとんど二代め猿翁の演目となる。それだけに、沢瀉屋らしく「竹本」「常磐津」それに「長唄」のお囃子の掛合で客を喜ばせる賑やかな演出となっている。幸四郎(更科の前・鬼女)錦之助(維茂)共に適役。また、東蔵の「女神」、玉太郎の「男神」も優れた所演であるものの、やはりしっかりとした構成の、これまでの「紅葉狩」にはかなわない。

 

「河内山」

・ 「質店」での吉右衛門の台詞の上手さ。「清兵衛」の歌六。「おまき」の魁春も地味ながらしっかり(ただし、魁春の目元の「かくし紅」が濃すぎるのは不可)。

・ 「道海」に扮した吉右衛門は、どこまでも颯爽とした風姿で上品。全く一癖ありそうな人物に見えてこないのが流石だ。言い分が通らずに中途退出、という件でも、気品を失わず、静かで鷹揚な仕科をみせるのも傑出した名技。

・ これに対して幸四郎の「出雲守」も一歩も譲らず、「道海」と堂々と対峙し、癇癖な大名を演じているのが偉い。

・ 道海に、娘を早く帰宅させるよう催促されるや、「老女に宿へと申し付けなば」と応じる松江候(幸四郎)だが、「なば」は仮定条件で、「もし申し付けたなら」という意味になってしまうので不可。ぜひ「老女に宿へと申し付けたれば」と確定条件に訂正してほしい。

・ 「数馬」は歌昇。凛々しく、きっぱりと演じているのはよいとしても、終始きつい表情を崩さないのが遺憾。「浪路」は米吉。おっとりとした美しい風貌は貴重だ。が、松江候が大膳(吉之丞)に「小左衛門(又五郎)を斬れ」と命じた時くらいは、下に目を落としてばかりいないで、驚愕の目差しでほんの少しそちらの方を見なければならぬ。

・ 「玄関先」での吉右衛門の、あの、「悪に強きは善にもと」の台詞回しは緩急自在で絶品。

・ 花道での道海の「馬鹿め!」では松江候に向けてのものなのだから、幸四郎(松江候)はツカツカともっと大きく前へ踏み出さなくてはいけない。

 

 

「松寿操り三番叟」

・ 「秀山祭」の舞台を清めるための「三番叟」。円頂鶴のつがいを背景に、八丁八枚の豪華版。操り人形の動きのなかに、舞踊の名手らしいこの優の巧技をみせる。特に「鈴の段」以後の跳躍の美しさと、しっかりとした反閇に感銘。

 

「俊寛」

・ さすがに吉右衛門。下手の岩陰より現れての寂寥感から、喜悦(成経と千鳥の恋仲)、歓喜(赦免の船を迎えて)、憎悪(俊寛の名が記載されていない)、一変しての狂喜(丹左衛門の登場)、更に忿怒、激情(千鳥を乗船させぬ瀬尾)と推移し、最後の岩上での絶望、諦観・・・・・に至るまで、吉右衛門は、あたかも「俊寛」と融合一体と化したるごとく自在に演じて観客の心を惹きつける。「形容」よりも「心理」の複雑な動きで魅了させるのは、初代吉右衛門と同断だ。台詞も仕科も、すべて傑出して見事なものだ。(今「形容」よりも、と記したけれど、「心理」を優先する演技には、時折、その「形容」に思わぬ破綻を生じることがある。今回も、吉右衛門が岩陰から小屋へ辿りつき、体をふらつかせて、後ろ向きに膝をつく件で、流人らしからぬ真っ白な足の裏をみせたのだった。これなどもその一例であって、吉右衛門にとっては、まさに「千慮の一失」であったといえようか)

・ 「瀬尾」の又五郎が、また素晴らしい。概して、この役は重々しく演じられるのが普通だが、又五郎は、「清盛公の厳命だァ」などの口調、船に乗り込んでゆくあたりの足取りなど、たっぷりと憎々しく「敵」の味を出しながらも、それがなんとも<安い>のだ。この<安い>のが実は「瀬尾」の性根であって、それを又五郎は見事に把握し体得して演じているのである。

・ 「千鳥」の雀右衛門は、いかにも義太夫物らしい「海女」で佳演。野趣が纏綿する「サワリ」の件なども愁いが流れて佳良だが、厳しくいえば、いま少しの媚態がほしい。

・ 「丹左衛門」の歌六は熱演だが、やはり二枚目系のこうした捌役には不満が残る。「ニン」とはおそろしいもので、「帰還すべきの条」、「今しばらく辛抱しやれ」「見ても見ぬふり、知らぬ顔」という台詞などにも、凛とした感じ、爽やかさ、瑞々しさ・・・・といったようなものが不足するのだ。今回の座組みなら、やはり錦之助のものだろう。

・ とはいえ、播磨屋一門でかためたこの「俊寛」は、まさに上出来。一級品といっていい。が、ここで吉右衛門に少しく言っておきたいことがある。それは、こうした「秀山祭」には、いや、「秀山祭」だからこそ、初代の「型」をきちんと残しておかなければならないのではないか。「秀山祭」と銘打たない公演であるなら、吉右衛門なりの公案をみせることに異論はないのだが・・・・・。すなわち、「河内山」での「馬鹿め!」は、小さく皮肉をこめての発声が初代の演り方であり、「俊寛」での「関羽の見得」なども、左手で髭を撫で、右手の刀はトンと突かずに真横にし、やや上手向きで見得をきっていたはずだ。こうした「型」は、「秀山祭」では、良否を問わず、キチンと演じておくべきではあるまいか。

・ 「成経」は菊之助、「康頼」は錦之助。

 

 

「幽玄」

・「新作歌舞伎舞踊」と銘打ってはいるものの、今の玉三郎にとっては、これは一種の「見せかけ」で、彼には新しい歌舞伎舞踊を創造しようなどという気持ちは全くないのではあるまいか。まさに「芸に遊ぶ」の心境で、これまで貯えてきた「舞踊の技術」という財産の上にたち、「動きの少ない振り」のなかで、存分に遊んでみたい、という気持ちではあるまいか。「太鼓」などという日本固有の特徴的な楽器を相手にしていても、彼にはそれが「古典的な日本舞踊」とはすみやかに融和しないことさえ知っていて、それでも、そうしたなかで、どれほどゆったりと踊り遊べるか、という一種の自虐的ともいうべき発想で踊っているのではないか。そして、恐らく玉三郎は、こうした「舞踊(幽玄)」を、まともに「新歌舞伎舞踊の創造」という見地からあれこれと論じる評者たちを冷たい微笑をもって眺めているのではあるまいか。