七月歌舞伎座 | 和角仁の「歌舞伎座」辛口寸評

和角仁の「歌舞伎座」辛口寸評

グリデン・ワズミの歌舞伎劇評

・楽日までにブログを出したいと思っているので、気付いたことをアトランダムに書いてゆきたい。いずれ、海老蔵論のようなものを書いてみたいと思っている。

・まず、タイトル。「通し狂言 源氏物語」とあるのはいけないと思う。「通し」になっていないからである。正直に「『桐壺』から『明石』まで」とするべきであろう。また、これを「源氏物語」とされては原典が泣く。「源氏物語より」としたい。近頃はどうも言葉づかいが曖昧でいけない。

・海老蔵は「源氏物語は祖父、父と演じ継がれ、私も初お目見得で出演した、まさに成田屋ゆかりの演目です。ただ、私も光の君を演じ続けるうち腑に落ちない点が多く出てきました。それを解消するには、作品づくりに身を投じるしかないと思い立ち、光の君の孤独感を表すため、歌舞伎だけでなく、オペラや能楽、華道などの芸術性の高い表現を取り入れて・・・」といっているが、取り入れて、とは言うものの、肝心な中核になる「歌舞伎」が見当たらない。ここでいう芯の「歌舞伎」とは、「光の君の孤独感を歌舞伎役者独特の皮膚感覚で観客の心を捉えてゆく」ことで、そのためには、せつないまでに追慕して止まぬ母の「桐壺の更衣」、また、その生き写しと言われた「藤壺」、更には、その血筋を持ち、容貌も酷似する「若紫(後の紫の上)」の登場がなくては叶わぬところだ。しかし、これらのうち、だれ一人として舞台に現れる女性はいない。これら三人に比べると、次々に舞台に登場する「葵の上」、「六条の御息所」、「朧月夜の君」といった面々は、「光の君」にとってはまさに外郭的な存在でしかないのである。

・芯がないのだから、補強としていれた「能楽」や「オペラ」が主役の「歌舞伎」を踏み潰して異常な暗躍をみせる。「葵の上」で激しくせめたてる「六条の御息所」の「生霊」(能楽)、「須磨」へ寂しく落ちてゆく「光の君」の孤愁をしみいるようにうたうカウンターテナーの「闇の精霊」(オペラ)・・・・。朝日新聞の天野氏が「新作能 源氏物語」と評した皮肉味もわかるような気がしてくる。

・「源氏物語」の劇化に際して、必ずしも原作に忠実である必要はないものの、やはり限度を超えた改変には注意したい。筆者の近くに数人の女性客がいて、「源氏物語って本当に凄いわね。葵の上に男子が誕生すると、生霊を放って相手を死に追いやるほどの激しい嫉妬を送る六条の御息所、それに源氏の君を守護する八大龍王の、あの恐ろしいまでの躍動感を書くなんて、紫式部っていう人は、私たちには計り知れない天才女性ね」などと語り合っていた。これには実に困った。「六条の御息所」の生霊は「車争い」で侮辱された恨みの果てのものであり、八大龍王の件も、「須磨」での暴風雨襲来のなか、落雷で宿所を焼け出され、うたたねの体である「光の君」の目前に顕れた、故・桐壺帝(父)の亡霊の「慈しみの言葉」の劇化に他ならない。これらが源氏物語に書かれている<事実>と取られては困るのである。

・これからの新作歌舞伎には、否応なしにこうしたプロジェクションマッピングが主役になってゆくであろうが、そうなると、歌舞伎本来の魅力ともいうべき、「役者の肉体」はおのずと小さな一要素に萎縮してしまうかもしれない。修練を経た巧技も過小評価されてしまうのであろう。致しかたないと思う反面、いいしれぬ寂しさが襲ってくる。

・それにしても今公演、座頭を勤める海老蔵だが、いかに成田屋にゆかりの演目にもせよ、昼夜ともに「新作歌舞伎」とは意外でもあり、情けない。どちらかに「古典物」を一つ、どっしりと据えてほしかった。妻を愛し、子を慈しみ、人間としての堀越孝俊には敬意をおぼえるものの、やはり役者を生業とする以上、しっかりと「古典歌舞伎」への精進のあとをみせてほしいと願わずにはいられない。素質はあるのだが・・・・という言辞もいつまでも続くものではない