自己紹介ページを作りました。(まだ途中までしか書かれていませんが、一旦公開します。
私はアラフィフの男、就職氷河期世代の犠牲者(私はそう思ってます)。
小中学校の経歴一部略)
中学校3年生の高校受験の時、高校を卒業して大学へ行くために、両親は家に来てくれる家庭教師を雇ってくれました。
その前の、家庭教師の営業が来たとき、男の大学生かいいか、女の大学生がいいか両親に聞かれて、
男でいいよね?って両親に決められた。実は私は兄弟にお姉ちゃんが欲しかったので、本当は女子大生がよかった。
ですが男の大学生が私の家庭教師の担当に。
生真面目な男の大学生の家庭教師でした。もし女子大生の家庭教師だったら、「やっぱ私は男なので、年上が好きだったので、
女子大生の家庭教師だったら、好きになってたと思うし、もっと頑張れたと思う。きっと受験も上手くいって公立の頭のいい高校や大学へいけたと今更思ってる。
(略)
私は、私立の普通科高校を卒業後、メディア関係の専門学校へ行きたかったのですが、当時そのような専門学校は
都会にしかなく、ローカルメディア局を受けても見学の段階で落選。放送技術ガないから。でもうちのパソコンの専門学校から、テレビ局のマスターに受かったひとも。羨ましかった。
放送局の見学の段階で知ったことが。女の子たちスーツケースを持って席に座ってた。
全国周って女子アナウンサー試験を受けてるんだなーって思いました。
都会へ出ない理由は他にも。
実家にいるワンコへすぐ会えなくなる、お金がかかるということで、親からは反対された。。
でも一人暮らしをしたい思いがあり、お隣の県の少しだけ興味があったパソコンの専門学校へいくことに。
当時のOSはMS-DOSの時代でした。今は見かけることが少ないと思います。(多分)
そこの専門学校では、情報通信学科、その中に情報通信コースと情報処理コースがありました。
情報通信コースが11人、情報処理学科が15人くらいでした。
両方のコースあわせての同級生は53人でした。
通信コースの少しの授業を除いて、同じ教室で両コースで合同で授業をしていました。
地元に戻って就職を決めたかったのですが、数社受けても不採用。
結局、中小合同説明会と言うものがあって、そこで出会った電気工事の会社(細かい仕事内容は話さないようにします。
小会社なので、ばれる可能性があるので)。
に努めることになりました。工事会社ということで、年上で職人の人ばかりだったから、人間関係について行けなかった。
4月に入社して、9月ごろから登校拒否気味になり、自分で精神の異常を感じ、当時は敷居の高かった総合病院の精神科を
受診しました。診断は「うつ状態」
同年11月に辞職願を会社から書くように言われ、自己都合による退社になりました。
専門学校の時の同級生からは、辞めたあと、12月まで会社所属していれば、ボーナスもらえたのに・・と言われたが、
そこまで考える余裕もなく、精神的に追い詰められていた。
実家に戻り、1年休養しつつ、心療内科をいくつか受診。
精神科でも心療内科でも内容はほぼ変わらない、文字のイメージの問題。
やっと固定の個人クリニックに通うことに。
通院して1年くらいが経過したとき、ネットで自立支援と言うものがあることを知りました。
クリニックの受付にその相談をしても、知らないと。
自分で市役所に申請することになりました。
そこで病名が「双極性障害2型」とつきました。
また、精神障害者手帳2級を取得することになりました。
その後は、障害をクローズ(障害者であることを隠して)して、アルバイト生活をしていました。
いろいろアルバイトをしました。
接客や郵便物の仕分けなどいっぱいアルバイトを経験しました。7カ所くらかな?
一番長く続いたのは、ショッピングセンターにある某ゲームメーカーが作ったゲームセンターのオープニングスタッフ。
2年半くらい続いた。楽しかったし、みんなスタートは一緒だったので。
20代、30代のころはアルバイトばかり。
40歳の時、障害者職業能力開発校というのがあることを、ハローワークから情報を得て、
受験し合格。一般事務科での訓練となりました。よかったのは、勉強しつつ手当も出つつ、障害者年金をもらいつつだったので、
貯金をしていれば、かなり溜まってたかもしれません。全部、趣味やらに使っていました。
その学校は、履歴書には、本来は職歴になるのですが、一般的にわかりにくいので、履歴書は学歴と書いています。
4月入校(入学)、就職が決まったら退校となる学校。
最終的には就職が決まらない場合は1年間通学できることになっていました。
途中で就職を決めて退校(卒業)する同級生もいましたが、私はしっかりというか、就職が決まらず、翌年の3月まで、通学していました。
それからは、心療内科に通いつつ、A型事業所を2カ所、1年半と2年。就労移行支援に3年間所属していました。
A型では、軽作業のタオル折り、和菓子箱折り、封入など、また途中から最終検品をしたり、指導係も務める、次のA型では、パソコンの入力やカタログの封入、途中から私ら数人が選ばれて、施設外の段ボール発送業務をやることになりました。最初は体力使うので大変でしたが、1か月したら体も、頭も慣れてきて、半年くらい目から新人の指導係を務めたりしていました。
人に教えるのは、本当は苦手ですが、がんばりました。
2カ所目で仕事をしていて、心療内科の先生から「日中眠気残ってるならSAS睡眠時無呼吸症候群の可能性があるのでは?」
となり、人生で初めて、呼吸器内科を受診。一晩の簡易検査の結果、SASということに。
それと同時に「心臓先天性2尖弁(以下心臓弁膜症)」の可能性があるということで、総合病院の循環器内科を受診。
その病気が確定しました。
それまで、健康診断では「心臓肥大」という結果で要検査と出ていましたが、内科を受診しても特に問題はなかったのです。
人生で初めて呼吸器内科を受診してわかった心臓弁膜症。そこでA型事業所の段ボール発送業務は体力を使うのでということで、
そこのA型は退所することになりました。
心臓オペを受け、1年間休養、休養明けにコロナ禍が来てしまいました。
A型の見学すらできない状態。SNSのインスタにDMが来ていて、就労移行支援へのお誘いが。
A型に通所しているときに、仲間から「就労移行支援は絶対いくな、手当もでないし、時間の無駄となると。
しかし、コロナ禍で行くところがなかった。
現在は心臓オペをして、体内には機械式人工弁、人工血管が入っています。
人工物が体に入っているので、一生身体障碍者1級の手帳を持つことに、そして、血液をサラサラにする薬
「ワーファリン」を一生飲むことに。
現在は、いろんな科を受診していますが、必ず受診時には「ワーファリン」を飲んでることを伝えるということに。
医師や病院には「ワーファリン」を服用していることを伝えないと、出血が止まりにくいということを伝える。
そして心身の障害者になり、両方手帳を持つと障害者雇用の会社受けても不採用ばかり。
アラフィフ、精神障がい者手帳、身体障がい者手帳をもっている、心臓オペ後の休養、コロナ禍、就労移行支援で無手当。
8年もお給料をもらってない状態、ある意味空白、上記の時間がもったいなかった。
自分のせいと言われてしまったら終わってしまいますが、でも働いて収入を得る、社会に参加しているってのが、やっぱり理想です。
精神障がい者30年、心臓機能障がい8年やってます。手帳も持ってます。
精神2級、身体1級。