秋の日の
ヰ゛オロンの 
ためいきの
ひたぶるに
身にしみて
うら悲し。

鐘のおとに
胸ふたぎ
色かへて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや。

げにわれは
うらぶれて
ここかしこ
さだめなく
とび散らふ
落葉かな。





ポール・ヴェルレーヌより
『落ち葉』







おはようございます
希咲智美です。





『落ち葉』

この詩は、私が保育園の時に
2番目に覚えた詩です。



子ども心故に、
どういう意味だかわからないまま
口ずさんでいた詩だけれど

どういうわけか
秋になって
この詩を思い出した。



今でも内容はわからないけれど
この詩を詠むたびに
哀しい気持ちになってしまう。







『秋』というのは寂しい季節。

というのが自分の主観。



だけど、
人間考え方感じ方は十人十色。


私の敬愛する吉田松陰先生は、
小伝馬町老屋敷の中で
処刑直前に書き上げた
『留魂録』の中でこのようなことを
述べられている。



今日、私が死を目前にして、
平穏な心境でいるのは、
春夏秋冬の四季の循環と
いう事を考えたからである。

つまり、農事で言うと、

春に種をまき、
夏に苗を植え、
秋に刈り取り、
冬にそれを貯蔵する。

秋、冬になると農民たちは
その年の労働による収穫を喜び、
酒をつくり、甘酒をつくって、
村々に歓声が満ち溢れるのだ。
この収穫期を迎えて、
その年の労働が終わったのを
悲しむ者がいるというのを
聞いた事がない。



(略)



だが、私自身について考えれば、
やはり花咲き実りを
迎えたときなのであろう。

なぜなら、
人の寿命には定まりがない。
農事が四季を巡って
営まれるようなものではないのだ。

人間にもそれに相応しい
春夏秋冬があると言えるだろう。

十歳にして死ぬものには、
その十歳の中に自ずから四季がある。
二十歳には自ずから二十歳の四季が、
三十歳には自ずから三十歳の四季が、
五十、百歳にも自ずから四季がある。

十歳をもって短いというのは、
夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。百歳をもって長いというのは、
霊椿を蝉にしようとするような事で、

いずれも天寿に達することにはならない。




私は三十歳、
四季はすでに備わっており、
花を咲かせ、
実をつけているはずである。
それが単なる籾殻なのか、
成熟した栗の実なのかは
私の知るところではない。
 
もし同志の諸君の中に、
私のささやかな真心を憐れみ、
それを受け継いでやろう
という人がいるなら、

それはまかれた種子が絶えずに、
穀物が年々実っていくのと同じで、
収穫のあった年に
恥じないことになるであろう。 




これは四季に松陰先生の
死生観を重ねたものです。



わたしは19歳。


いつ死ぬかはわからないけれど
自分は種を巻くことはできたのか、

これからできるのか。




そう思うと不安しかないけれど、

でも自分が誰かに必要とされるなら
頑張れる気がする。



生きる意味は自分が見出すものだけど
他人に生かされる人生も
また好いかもしれない。








でも私たちアイドルも
みんなの時間に生かされてる。


必要としてくれる方

ありがとう。






わたしもみんなが必要なんだよ、








ふっと見たらのびてた。







読んでくれてありがとう

群馬CLEAR'S/希咲智美