カトリック東京大司教区大司教 山本太郎の「いのち」のことに触れる | 群青

カトリック東京大司教区大司教 山本太郎の「いのち」のことに触れる

菊地功 さんというカトリック東京大司教区大司教。
2019年10月27日時点の短い論文が目に留まりました。
出典: 
朝日新聞「論座」2019年10月27日です。

この論文は「ローマ教皇の日本への思い」というタイトルで、カトリックが何をどう受け止めた、全体として相当に長文。
ともあれ、その一部ではありますが、山本太郎の街頭活動に関する部分だけ、全文を下に転写いたします。

 

◆ 菊地功 / カトリック東京大司教区大司教  2019年10月27日

 

 

▲ いのちが危機にさらされている(部分)

キリスト教がもっとも重要視していることに「いのち」の問題があります。

 これは肉体的な「生命」ではありません。人間の尊厳に直接かかわるものです。

 亡くなった人の「生命」はありません。しかし、「いのち」の尊厳は失われることはありません。だからこそ、私たちは亡くなった人たち――死者たち――を愚弄することは許されていないのです。
(略)

 核兵器の問題はもちろんなのですが、それ以外にも教皇が「日本社会の抱える問題」として認識されていたことがいくつかあります。

 それが、若者の自殺であり、高齢者の孤立であり、難民や移民に対する処遇の問題だったのです。これらはすべて、「いのち」が危機にさらされていることを象徴する問題だと思います。

 今年6月、長崎県の大村入国管理センターで、収容されていたナイジェリア人の男性が、長期収容などに抗議してハンストをした末に死亡するという事件がありましたが、入管庁は、男性に犯罪歴があったことなどに触れ、「対応に問題はなかった」と発表しました。

 一つのいのちが失われたという問題が、法律や手続きの問題にすりかえられてしまったのです。

 一部の人たちから「勝手にハンストをして死んでいったんだから、自業自得だ」というような声があがったことにも、非常に衝撃を受けました。

 「いのち」を賭けて何かを訴えるということに対する畏怖や畏敬の念が、まったくなくなっている。

 たとえばベトナム戦争のときにも、僧侶が和平を訴えて焼身自殺をするといったことがありましたが、あのときにはもう少し世の中が畏怖や畏敬を示していた気がします。

 

▲ 「いのち」を根底に置いた価値観の回復を

 今年夏に参議院選挙があり、山本太郎氏が率いる「れいわ新選組」が躍進しました。障がい者の方を二名、政界に送り込んだのには驚かされました。

 選挙期間中は、山本氏の選挙演説を聞きに、多くの人が集まりました。これまでにない額の寄付金が寄せられ、中には、ポケットに数百円しかない人が、その数百円を差し出した、というようなことがあちこちであったとも耳にします。

 それは山本氏が、政治に「いのち」の問題を持ち込んできたからであるという見方もできます。そしてそれを、決まり切った文句ではなく、聞く人の心に落ちる、まさに「生きた言葉」で語りかけたからではなかったかと思います。

 経済的な問題として「消費税廃止」を叫ぶだけでなく、「いのち」をどう守っていくのか、あるいは「いのち」の危機に瀕している人の声どのようにすくい上げるのか

 貧困の問題も、難民の問題も環境問題も、あるいは死刑の問題なども、すべて「いのち」を根底に置いて考えていく。そうした価値観を回復していくことが、今の日本では何よりも急務だと思います。

 今回の来日で教皇が訪れる広島、長崎、そして東北の被災地の人々との面会でも「いのち」の問題は問い直されるのではないかと考えています。被災者の方々の現状には、今の日本の「いのちの危機」のすべてが、象徴的に表れていると思うからです。

 若い世代がみな地元を離れてしまって、高齢者しか残っていない。原発事故によって地域の共同体も破壊されてしまって、孤立している人も多い。そこから精神的に追いつめられたり、経済的に逼迫したりして、自死に追い込まれるケースさえある……。

 そうした、深刻な「いのち」の危機が、被災地だけではなくこの国のあちこちで起こっているのです。

 その現状を、多くの人がしっかりと認識し、いのちを守っていこう、すべてを「いのち」をベースにして考えていこうという価値観を取り戻していく。

 教皇の来日と、その際に発せられるメッセージが、そのためのきっかけの一つとなることを願っています。

 

●菊地功大司教のプロフィール

1958年岩手県宮古市生まれ。86年に司祭に叙階され、その後94年まで西アフリカのガーナに派遣されました。帰国後、名古屋教区の神学生養成担当や神言会日本管区長を経て、2004年5月に新潟教区の司教に任命、同年9月に司教に叙階されました。カトリックの慈善団体「カリタス」の日本やアジアにおける責任者を務めており、14年にはローマ教皇庁福音宣教省の委員にも任命される。2017年、第9代東京大司教に任命される

 

●同じことを山本太郎スピーチに感じます

消費税減税を訴えてきた山本太郎のスピーチに、少なからず、「命」を守る・・・という言葉が登場していることは、おやっと聞き耳を立てずにはいられませんでした。「生きててくれよ~」と叫んでもいました。

貧しく、また殆ど貯蓄もないロスゼネ世代に対する熱い想い、多大な奨学金返済を背負わされ学校を出ざるを得ない学生への熱い想い。
言葉が具体的でストレート。これは、言辞を操って、焦点をぼかしにぼかして選挙戦をすり抜ける安倍語と対局のスタイルです。
野党の日本共産党、立憲民主党、国民民主党等の野党さえも、政策概念上では訴えてきたのは分かりますが、生に「いのち」に真摯に言及し、その活動を独りであっても全国行脚という行動でコツコツと続けている山本太郎の姿は、感動的。
いつぞやの郡山駅前の街頭では、福島の金融業おじさんの異論を丁寧に聴き、答え、おじさんに「彼は政治家じゃないみたいだ。まるで宗教家だ」という意味のことを言わせたのを、自分は、強く覚えています。

日本社会は、安倍政治・アベノミクスによって酷い格差社会へと転落し、それでも、真摯にその現実を受け止める事なく、平然と「大企業のための経済」だけが課題であり、「国民の命」は救うに当たらないといわんばかりの政治を続けています。
従来の政治ボキャブラリ~により、確かに国会内では野党と行政府間の議論はされていますが、不正の疑いが濃厚な行政手続きの入り口で数に負けてしまっていると思います。

 
菊地功大司教が言及されたとおり、もはや、日本の政治世界だとしても、「生命」の救済を根底に置くべき事態になっていて、その一番バッターが山本太郎・れいわ新選組なんだと思います。
 
 
 

 

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