戦後73年 日本赤十字社看護婦さん証言 死のうと思ったマニラ~バギオ逃避行 | 群青

戦後73年 日本赤十字社看護婦さん証言 死のうと思ったマニラ~バギオ逃避行

今年2018年8月15日は、73年目。

1945年では16歳だったという赤十字社の看護師さんの証言。
これには、改めて、戦争の悲惨さを認識させられてしまいました。
当時16歳。現代でいうと高校1年生の年齢ではありませんか。日本赤十字社の看護婦さん木村さんの前線フィリピンにおいての壮絶な体験報告です。
2017年8月14日、ローカル紙の埼玉新聞です。

激戦の中、軍の敗退の山中、死体が転がる山中の逃避行を、不思議ながらよく生き延びられたと思います。



■ 飛び散る女性の頭、自らも死のうとした元従軍看護師 戦後72年…激戦地で生き、戦後は助産師で赤子抱く 埼玉新聞 8月14日

 

 

(全文)

もう歩けない。何度も死を覚悟した。ジャングルの川の中で力尽き、このまま流されて死ぬんだと思った。「同級生2人のお骨は私が内地の両親に届けなくちゃいけない。絶対に死んじゃいけないと自分に約束した。けれども、かなわずに死のうとしたの

 元
従軍看護師の木村美喜さん(89)=埼玉県桶川市=は激戦地のフィリピン・ルソン島で約1年、敵の爆撃機や砲弾が四六時中頭の上を飛び交う中、傷病兵や患者の救護に従事しながら生き抜いた。食べるもの、飲むもの、薬もない無数の死体が転がる山の中を逃げ回り、行軍した。仲間や兵士たちは次々に命を落とした。

 生まれも育ちも桶川。日本赤十字社埼玉県支部の看護師だった1944年7月、召集を受けてマニラ郊外の陸軍病院に派遣された。当時16歳。埼玉班26人で最年少だった。歯科外来に勤務し、当初は不自由のない生活をしていた。

 
9月、マニラ初空襲。次第に戦火が拡大し、12月に病院は解散。絶え間ない空襲の下、部隊はマニラから北に約250キロのバギオに移動した。

 悲劇が襲ったのは、
45年1月23日。正午前に大編隊の爆撃機が襲来し、病棟は瞬く間に火の海になった。がれきの中で「助けて」とさけぶ声。焼け落ちた梁(はり)が目の前で女性に直撃し、頭が飛び散った。外に逃げた人々は次々と機銃掃射で撃たれて犠牲になった。

 埼玉班も9人が戦死。「
今夜は夢でいいからお父さん、お母さんに会いたいね」。前日に梅干しをしゃぶりながら古里の話をした同期2人は骨だけの状態と、顔や手足、内臓がない状態で見つかった。

 
4月バギオから撤退。山の中で終わりなき逃避行を続けた。昼間は空から見つかるため移動できず、夜は砲弾が飛んでくる。草のしとねに横たわり、古里の歌を口ずさむと、歌声はいつしか涙声に変わっていった。「みんな『白いご飯をおなかいっぱい食べたい』『死にたくない』と言いながら死んでいったの

 埼玉班の仲間も一人、また一人と
病気や栄養失調で亡くなった。「今度死ぬのは自分の番だ」。どんなときも肌身離さず持っていた親やきょうだいの手紙や写真、日の丸の寄せ書きを河原で焼いた。死んでから人に見られたくなかった。

 終戦を知らされたのは
8月17日。途端にマラリアで40度の高熱が出た。捕虜収容所に行くまでの山を下りられず、同僚3人と部隊から取り残された。もう半歩も動けない。道の両側は腐臭を放つ死体の山うじが団子になって、ハエが真っ黒にたかっていた。ゲリラの先住民の足跡を見つけるたびに背筋が凍った

 ジャングルの川の中で先輩に泣きながら懇願した。「お世話になりました。私はここに座っていたら流されてしまう。待たないで先に行ってください」。そのたびに言い聞かされた。「
一足歩けば一足日本に近づく。一足歩けば一足お母さんに近づく。日本に帰りたかったら、お母さんに会いたかったら歩きなさい」。その言葉に背中を押され、何とか収容所にたどり着いた

 
約4カ月の捕虜生活の末、12月に復員。日赤病院に同期2人の遺骨と遺髪を届けた。桶川駅で母の胸に抱かれてわんわん泣いた。17歳だった

 戦後は助産師として働いた。「
もし日本に帰れたら、たくさんの兵隊さんの亡きがらを葬ってきた分、この手で新しい命を取り上げよう」。収容所で毎晩、誓った夢をかなえた。抱いた赤ちゃんは数え切れない。3分間に4人取り上げたこともある。自らも子ども3人、孫5人に恵まれた。

 今は子や孫のため、社会のために一日でも長く生きていたいと願う。戦争を経験した人が減り、自分の代わりがいないと思うから。多くの講演を引き受け、本も出版した。戦争を知らない若い人たちみんなに、一度でいいからこれまでの話を伝えたい。「
戦争は人の殺し合い。もう二度としては駄目。命は本当に大切。一つっきりしかないんだから。かけがえがないんですよ

●舌足らずの感想です

とても、要約できないです。
全文をお読み頂いて、ありがとうございました。

自分の実父もまた、フィリピンのレテ島で米軍の艦砲射撃と上陸により、山中を敗走し饑餓を体験し、そしてマシンガンを大腿部にうけ、それが幸いして米軍の捕虜となり、米軍野戦病院にて治癒しました。

レイテ島の旧日本軍には病院があったのか知りませんが、あったとしても、医薬品がなく、自分の親父は、故郷に生還復員し、自分のお袋と再会できていなかったのだと思います。
親父は、自分が子どもの頃のカレーライスが大嫌いでした。
食べ物が無い山中で、野草に野生の胡椒を混ぜて食べていたのが、カレーライスを見ると、眼前に浮かび上がるからです。
この看護師だった少女の逃避行もまた、絶望の中の逃避行であったと思います。
「死のう」と思われた時があったそうです。胸が痛みます。
でも歌を歌った・・・と。

捕虜収容所で、「この手で新しい命を取り上げよう」と毎晩誓った・・・と。

そして、復員後に助産婦に。

 

涙が出てきました。
戦争は、殺し合い。

いくら「正義」の冠を被せても、生命を断絶させることの根拠にならないです。世界のリーダー達、日本の為政者達もまた、二度とこうした事が起きないように心を砕くべきだと思います。

戦争を、直に自分は知りませんが、もっと若い世代の方は、更にご存知無いでしょう。
この元従軍看護婦、木村美喜さんのご体験を、自分ももっとお聞きしたいと思いました。

 

 

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