人生と村を破滅させた水俣病 公式確認60年目 | 群青

人生と村を破滅させた水俣病 公式確認60年目

すっかりと遠のいていた自分ですが、九州の水俣でおきた水俣病のことです。
美しい水俣湾とそれに連なる不知火海なのに、チッソという一企業工場のメチル水銀垂れ流しが水俣の海と集落を襲い、生命、人生を破滅させてしまった。
公式確認(1956年)から60年。1959年の細川一院長によるチッソ排水投与・猫症状発生実験からすると57年。

そして1970年チッソ株主総会から46年、1988最高裁判決から28年でもあります。
今日まだまだ、2,137人の方が患者認定審査を待っている・・・んだそうです。



■ 水俣病、2千人超審査待ち…公式確認60年 読売新聞 10/29(土) 14:33配信

(全文)

公式確認から今年で60年となった水俣病の犠牲者慰霊式が29日午後、熊本県水俣市の埋め立て地「エコパーク水俣」で営まれた。

公式確認日(5月1日)に予定されていたが、熊本地震の影響で延期されていた。熊本、鹿児島両県では、
認定患者2282人のうち8割に当たる1888人が亡くなり、2137人が患者認定の審査を待っている

慰霊式は、水俣市が、患者・被害者団体らで構成する
実行委員会1992年から開いている。今年は、劇症型の水俣病で夫を亡くした認定患者の大矢ミツコさん(90)ら患者や遺族、山本環境相、蒲島郁夫・熊本県知事、原因企業チッソの関係者ら約800人が出席。他界した認定患者の名簿が納められた「慰霊の碑」に、新たに8人分を加えるなどした。

 

 

 

 

 

●水俣病(みなまたびょう)(英語:Minamata disease) Wikipesia辞典より
日本の化学工業会社のチッソの熊本県水俣市にある水俣工場が水俣湾に流した廃液によるメチル水銀汚染の食物連鎖で起きた公害病である。そして、環境汚染の食物連鎖で起きた人類史上最初の病気である。1956年(昭和31年)に発生が確認された。

(中略)
なお、1959年7月、熊本大学水俣病研究班は、原因物質は有機水銀だという発表を行った(1959年10月、水俣病発見者細川一院長は、院内ネコ実験により、アセトアルデヒド酢酸製造工場排水を投与した猫が水俣病を発症していることを確認し、工場責任者に報告している(この時点ではメチル水銀の抽出までには至っていない)。

しかし、工場の責任者は実験結果を公表することを禁じた。

当時、チッソの工場責任者が初期において隠蔽したというのである。
現在は、福島第一による放射線癌について、東電も現政権も認めておらず、類似した否定の仕方をしている。


●田中実子(じつこ)さんの水俣病闘病の日々

お母さんが亡くなられた後は、姉さんご夫婦が、実子さんの面倒をみていらっしゃるんだそうである。なんと2歳の時の発病から60年間。
ヘルパーさん無しではやれない模様でもある。


■ 生きている姿知って 水俣病闘病60年の田中実子さん 田中久稔 朝日新聞デジタル2016年5月1日09時33分

(一部抜粋)

・・・・ 5月1日、水俣病は公式確認から60年を迎えた。熊本県水俣市の田中実子(じつこ)さん(62)は1956年、入院先の病院が「原因不明の病気」として保健所に届け出て、公式確認のきっかけになった患者の一人だ。発症から60年。そのほとんどを居間で過ごし、これからも過ごす。両親は亡くなり、姉夫婦による介護が続く
・・・・ 自宅は水俣湾の小さな入り江にある。原因企業チッソの工場からの廃水が流れ込んだ湾だ。
56年4月、5歳の姉が発症し、その10日ほど後に2歳11カ月の実子さんが発症。「くつがはけない」という言葉を最後に、話せず、歩けなくなった。姉妹は市内随一の病院だった新日本窒素肥料(現チッソ)付属病院に入院。院長が原因不明の病気の多発を保健所に届けた5月1日が公式確認とされている。姉は発症から3年足らずで亡くなった

・・・・ 綾子さん(実姉さん)も水俣病の症状があり、行政から医療費を受ける。良雄さん(義兄さん)は13年、患者と認定された。姉夫婦に将来の不安は尽きない。「自分たちが先に逝ったとき、実子の面倒はどうするのか。罰かぶる(罰のあたる)話ばってんが、この子が先に逝ってくれればと」。綾子さんの口癖だ。

 

バチ当たり・・・・でなんか無い。姉夫婦が居なければ、どう面倒を見れるのか何もないからである。
一企業チッソの排水によって、数多くの村の人達を殺し、生きるにもどうしようもない人生を送らせているのである。バチ当たりは原因者のチッソである。


●御詠歌のチッソ株主総会、土下座のチッソ社長
■ 荒れるチッソ株主総会 YouTube

■ 水俣病 : 株主総会 最高裁の有罪判決は18年後    YouTube
■ 裁判に負け土下座するチッソ社長 YouTube



 

1970年チッソ株主総会へ乗り込んで、御詠歌を唱え、壇上へと駆け上がり、親御さんのご位牌2つを社長の胸へと差し出す。
「親さまでございますぞ。両親でございますぞ。」
「親が欲しい子の気持ちが分かるか。分かったか。」・・・と、いつもは、もの静かだったという浜元フミヨさんのようだ。
そして会社社長の土下座をみた患者さん達だった。
この動画にも出てくるが、石牟礼道子著作「苦海浄土」では・・・

言葉にならぬ想念の渦巻く只中を、根底からぎりりと引き裂くような声をあげたのは浜本フミヨさんだった。手甲をつけた両の掌をわななかせ、二つの位牌を、社長の胸もとに押しつけんばかりにさし出している。
「親さまでございますぞ! 両親でございますぞ」
会場は一瞬にして静まりかえり、息をのんだ。二つの位牌がふるえながら上下した。
「どういう死に方じゃったと思うか……、弟も、弟は片輪、親がほしいっ! 親がほしい子どもの気持ちがわかるか、わかりますか」
自分の言葉に耐えかねてフミヨさんは絶句する。あたりに聞こえた孝行者で、その看病ぶりは凄絶というというほかなかった。まもなく彼女自身も発病する。このときチッソは高度成長も凋落の兆しを見せはじめた経済界の一翼を荷う、突堤であった。日本興業銀行が江頭氏を吉岡喜一社長の後に配したのは、よほど重要な人事であったろう。氏はくぐもりのきわまった目の色を自分の内心に向けた表情まま、フミヨさんの気迫に打たれ、正座して、反射的にうなづいていた。
「わかります。よくわかります。責任は感じています。ですから……」
この雰囲気と情況の中で、ほかにどういう言い方があったろう。

海面の一角にふいに立った巨大な三角波のような、熱度の高い気分は急速に衰え、人間の哀れさだけが定着したような場面であった。わたしは立って呼びかけた。まったく予測しなかった自分の行動だった。
「みなさん、もう席へ帰りましょう。これ以上は無意味です。あとは天下の眼がさばいてくれるでしょう」
人びとが無言で、醒めぎわの夢の中を横切るように壇を下りはじめた。
「私たちは水俣へ帰りましょう」 
水俣以外のどこへ、帰れるところがあっただろうか。

 

・・・というような記述でこの「物語」を描いている。

当時のチッソの役員達はもう退役しているだろう。彼等は、孫やひ孫達の代となり、幸せでつつがない日常を暮らしているのかもしれない。
しかし、水俣の患者達では、生き長らえるにしても、そういう訳にいかないのである。
3.11福島第一原発のことだが、事業者の東電だけでなく政府も含めて、チッソ同様の間違いを、今日辿ろうとしているように見える。
生命を軽んじることだけは、やめて貰いたい。

チッソ株主総会はまだ良い。その後も水不知火海の人達の闘いは続いた。水俣湾の向こう側の天草諸島の患者認定だけでも・・・国はあれこれとセンを引いて、認定を拒む患者認定の壁が待っていたのだった。
石牟礼道子さんは天草の患者と共に何度も東京への交渉に同行した。
帰り路では「東京には、日本が無い」という話になったんだそうであった。


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