むのたけじ さん 記者時代のこと | 群青

むのたけじ さん 記者時代のこと

むのたけじさんが亡くなられました。
8月21日、さいたまの次男さん宅、満101歳だったようです。
ご冥福を祈ります。




2016/05/04 に公開 9分44秒
5・3憲法集会 むのたけじさん(100歳を超えたジャーナリスト)スピーチ 5・3憲法集会


2016年5月3日の東京・有明の憲法集会に登壇されました。
持ち時間予定は5分だったはず。7分あたりで主催事務局から、時間ですよの忠告だった。9分の熱弁で憲法の大切さ、戦争・戦場の狂気を訴えられました。


日本だけが(孔子の)故事のように、あの文章(日本国憲法)を高く掲げて、こうして(憲法を守ろうと)働き続けているのです。

これ(憲法を守る事)が通る(実現する)かどうか、必ず実現する。そう、断言します。

ご覧なさい、若いエネルギーが燃え上がっているではありませんか。至る所に女性たちが立ち上がっているではありませんか。

これこそ、新しい歴史が大地から動き始めた事なんです。とことん頑張りぬきましょう。第三次世界大戦を許すならば、地球は、動植物の大半を死なせるでしょう。

そんな事を許すわけにはいきません。


● 参考1 むのたけじ(武野 武治)さん経歴

1915年、秋田県仙北郡六郷町 生まれ。
県立横手中学校(現・秋田県立横手高等学校)から東京外国語学校スペイン語科卒業。報知新聞記者を経て、1940年(昭和15年)朝日新聞社に入社、中国、東南アジア特派員となるが、敗戦を機に、1945年(昭和20年)8月15日、太平洋戦争の戦意高揚に関与した責任をとり退社した[3]。戦前・戦中期には近衛文麿、東条英機、鈴木貫太郎ら政権中枢の政治家・軍人、また、画家の藤田嗣治、小説家の火野葦平らにインタビューした経験があるという。


1948年(昭和23年)元旦、妻子4人を連れて秋田県横手市に帰郷、2月にはタブロイド版の週刊新聞「たいまつ」を創刊、反戦の立場から言論活動を続けた。以後「休刊」の1978年(昭和53年)の780号まで出し続けた。



● 参考2 NHK ONLINE 2015年10月10日 よる11時放送
むのたけじ 100歳の不屈  伝説のジャーナリスト 次世代への遺言

ことし100歳を迎えたジャーナリスト、むのたけじ。戦前・戦中は朝日新聞の記者だったが、「大本営発表のウソを書き続けた責任」をとって敗戦と同時に退職。戦後は、故郷の秋田で地方紙「たいまつ」を30年にわたって自力で発行した。記者として戦前・戦後の日本社会を取材し続け、膨大な記事と発言を残してきた伝説のジャーナリストである。「戦争を絶滅させる」。その言葉や生き方は、読者のみならずジャーナリストをめざす若者にも影響を与えてきた。95歳を過ぎた頃から特に年少者や若者への関心があふれだしたという。「今の若者たちと話していると、新しいタイプの日本人が出てきたと感じる。絶望の中に必ず希望はある。戦争のない世の中を見るまでは死ねない」。100歳になった今も食欲は旺盛、講演や取材をこなし気力は衰えない。戦後70年のいま、伝説のジャーナリストの足跡とそのこん身のメッセージを通じてこの国の未来を考える“熱血”ヒューマンドキュメント。

語り:山田孝之
(内容59分)


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●むのたけじさん発言記録  むのたけじさんを囲む会2014年6月11日於:中帰連平和記念館  (PDFから一部抜粋)
残念ながら、この会の文字おこしにリンクが貼れませんでした。インターネット検索で全文を見つけて下さい。
最近の集会での発言しか見つけられず、それでは、従軍記者、朝祖新聞勤務時代のことがよく分かりません。
下に抜き書きしたのはごく一部。
しかし、従軍しての話、朝日新聞社の1945年8月15日前夜での話がありました。
このところは読んでおかないと、表面的に単なる「反戦」の人としか見えないかもしれません。


戦争責任を取らなかった日本
むのさんが二年ほど前の九条の会で演説されたビデオの中で、先生は「日本は戦後3つの大き
な戦いをやった。安保闘争、三里塚、学園闘争を戦ったけれど、しかし今はそんなことがなかったかのようなひどい状態になっている。それはなぜかみなさん分かりますか」と問われた。そし
て「実は、それは戦争責任を年8月15日に誰もとらなかったんです」と言われた。
私もまったく同感で、日本では1945年で戦争責任をとった人はいない。特にインテリゲン
チャはみんなダメで、戦争中も総崩れだった。私はただ一人大塚金之助先生だけは軍部に賛成し
なかった。13年間…。先生以外はマルクス主義者も平野義太郎も山田もりたもみんな転向して
軍部に協力した。戦争が終わったらすぐ平野義太郎は平和委員長になった。全然そこに自己批判
がなく戦争責任をほとんどの人が感じないまま、戦後の日本が出発してしまった。民主義国にな
ったんだと私たちは小学校で民主主義教育で教わったけれど、でもやっぱりそうじゃなかったん
だと最近ものすごく感じる。こういうひどい状態なってくると、私たちが習ったのは、にせもの
の、民主主義の形をしているだけのものだったんだと思うわけです。

ドイツ人の自覚
これがナチス・ドイツとの違いなんですよ。ドイツの場合、ヒトラーの一派がやったので、ア
ウシュビッツで殺したのはドイツ国民の運動じゃないんです。一政治政党の、非常に変わった連
中の犯罪行為だ。それをドイツ国民は自分たち全体の責任と受けとめたわけです。それで天下に
詫び、言葉だけでなく金でも物でも出せるものを出してユダヤ人の救済に当てた。それが、あの
ヨーロッパ何百年もイギリス、フランス、ドイツ戦った仲がいつの間にかね三者仲良くなって、
しかもイギリスが困った時ドイツに相談するような、そういう立ち直りを百年足らずの間にドイ
ツは築いたんですよ。それを日本は一円もやらんでしょ、なーんにもやらないんのだから。

敗戦時の責任の取り方むの氏は朝日新聞を辞職
敗戦のとき私は朝日新聞にいたんだけど、申し訳ない。新聞はどうする。ずーっと本当のこと
を書かなかった。誰も何も言わない。このままじゃいけないからと言って、8月14日の夜に「朝
日新聞にはもう来ません」と言って去ったのは俺一人。日本中の新聞何十何百社で誰も辞めない
もんね、俺以外には。9月になってからぞろーぞろー辞めました。だけど8月15日のあの段階
でね、これはわれわれの責任だ、考えなきゃいかんと行動することがが必要だった。過ちをした
らきちっと詫びるということです。

戦場で日本兵・男たちは何をやってきたかジャワからの輸送船で
私がジャワから帰る時、ジャワへ従軍記者に行ってシンガポールまで。
来る時は何千人も乗っていた軍用船、しかし私が帰る時乗ったのは兵隊さん3人しかいないの。誰もいない。私のように便乗した、3人。何千人も入る広い軍用船の向こう側に兵隊3人。こっちに便船していく3人。
それで二日かかってジャワからシンガポールまで来たわけです。
その3人の兵隊が夜になって喋ってるのは戦場で女を強姦した時の話。
それをヒソヒソヒソヒソ喋ってるんです。その中でほんとにビックリしたことは3人が3人とも同じ話。
3人が中国で強姦に行って何が怖かったか3人とも同じ経験してる、あとからだけど。要するに日本の兵隊がうちに入ってきたなあというと、もう出刃包丁が用意してある。子どもが小さい子ね。兵隊が来たーって言うと出刃包丁でさーっと子どもを殺してから自分の胸を突いて死ぬというね。
これが中国の女が身を守る最後の手段だ。最後にはみなそれをやられたって言う、3人とも。あの時はとても強姦どころじゃあなかった、あの女を手籠めにするどころじゃなかったって言うことを船の中で喋っていた。それを夜聞きながら、そこまで、とにかくこれは千年の戦争の歴史の中でなぜ男どもは戦場に行ったか。
それは要するに強姦と略奪と暴行、それから盗み。これが自由に戦場に出た時できるということを、ここ数千年来続けて来て、ズーッと今日までそれを許してきた。