フィリピン戦と統治の精神史 01 | 群青

フィリピン戦と統治の精神史 01

(「日本による占領統治」という表現を撤回し、修正しました 8月25日午後7時)


 前話に、フィリピン・マニラのビューホテル集団強姦事件の様相を上げた。それでは、日本軍が鬼畜の様なものばかりだったかというと、そうでは無い。他民族による占領統治が素晴らしいものだとは決して思わない。まずその前提に立つが、占領軍側でも、すなわち大日本帝国陸軍第14軍でも、フィリピン民族の実の姿に理解を示した指導者の、心というか精神が存在していたことを示しておきたい。


 平子友長『遺産としての三木清』、同時代社 (一橋大学機関リポジトリHPより)

(原素材は膨大なページ数である。主としてフィリピンに派遣された文士の三木清についての研究論文であるが、その前段にいきさつ・背景としてまとめられている箇所に、フィリピン統治の姿がでてくる。その中から、ホップステップジャンプで、抜き書きし辿ってみた)
 長くなるがフィリピン占領の歴史の一コマとして辿ってみた。日本軍・米軍による軍事的勝者や敗北者について述べるものではない。とやかく、日本が勝ったの負けたのというデジタル・バーチャル判別に拘る話題が多いが、自分は、「フィリピン占領」の中の日本側の人物像、精神・心にかなり心惹かれるものを感じたからである。
そして、多く語るものを持たないが、中学生レベルでお恥ずかしいが、読後感を末尾に書かせて頂きたい。これは、一般に知られる戦史であまり登場しないのではないかと思う。他民族の統治を指導する群像の中に、こんな精神のあり方もあるんだということを、改めて認識する。


 ●黒田重徳(第3代陸軍第14軍司令官、在任期間19435月~19449月)
 陸軍第14軍司令官歴代4人中、唯一生きて帰国(19522月仮釈放)したのが黒田中将である。19477月に終身刑判決を受けた第14軍司令官である。
何故なのか・・・。


「フィリピン共和国」による統治
 フィリピンは米の支配下で1935年に「コモンウェルス自治政府」(マロロス共和国、第1共和国とも呼ばれた 補論1参照)を発足させ独立準備中であったところへ、194212日フィリピンを日本が占領した経過がある。19431014日にホセ・ラウレルを大統領とする「フィリピン共和国」(第2共和国とも呼ばれる)が「独立」した。
 つまり、日本占領時代は二重政府状態であるか、または、陣容をほぼ引き継いだものなのか、調べてみたが明快に言い切っている材料を、自分は、未だ見つけきれていない。

少なくとも、黒田中将時代に、フィリピンは日本軍占領から独立した経過がある。      

米軍と行動を共にしたフィリピン抗日ゲリラが居たことからは、実質に二重構造のように伺えるようだが・・・。(この辺りは、また、別の視点から見た方がよいかもしれない)
 問題は、日本陸軍第14軍がどのような新「共和国」の陣容をとらせたかであるが、第14軍は、現実の場において「コモンウェルス自治政府」を支えてきたエリートの支配を温存させたようである。※補論2参照 ※エリートの陣容、人物には興味があるが割愛する。

 そして、対日協力政府のフィリピンの閣僚たちは、『米国式教育を受けたエリートであり、ラウレルら少数を除けば思想的にも親米的であったが、比島派遣軍〔陸軍第14軍〕指導部はこれを敢えて容認する政策を取った』とのことである。
 194310月の時点が、黒田中将が司令官時代であることに注目する。

 ●日本側の現地統治指導者の素質
 『日本のフィリピン統治の特殊性を考察する上で重要なことは、占領を指導した日本人指導者の多くが、欧米の大学への留学や長期の外国勤務の経験を持ち、アメリカの国情にも通じた国際経験豊富なエリートたちであり、宥和的な統治政策を支持する人々が多かったことであった。』

(※ 個人名は省略する ※ また軍事派遣部隊ではなく、日本から異国フィリピン統治指導のための要員、その多くは文化人が多数、現地に送り込まれていたことも初めて判ったがここの話題では割愛する)
 ※ 原文ママとする。「統治」の定義により日本軍は単なる協力者とも言えるからである。


 ●黒田中将の終身刑判決の背景
 連合国側の軍事裁判において、共和国政府フィリピン人閣僚格の2名が『黒田が英語重視論者で小学校の日本語教育中止に賛成』したこと、『四人の軍司令官のなかでは「最も軍国主義的でなく」親しみの持てる人物だったことを述べて熱心に弁護』したことが、その背景とのことである。
 前話でマニラ市街戦無差別殺戮話題を上げたが、フィリピン派遣の陸軍指導者格でも、フィリピンの実情を認識し、現地にフィットした方法を試みた人物が居たのだ。
  ※ 軍幹部= 日本が「独立」させたフィリピン共和国を指導する?担当部


 元第14軍参謀の軍監部吉田参謀課長が、自分の知る黒田の人間像について次のような事を語っている。

  あの方(黒田)は・・・ことあるごとに『東条はなっとらん』と、悪口ばかりいっておられた。東京から書類なんか来てもぜんぜん見もしないで、ポイと捨ててしまう。・・(中略)・・東京の連中がフィリピンの実情を知らぬ、知ろうとさえしないということで、腹を立てておられたんだと思うのです。
  東京から、英語とタガログ語ではいかん。フィリピン人に日本語を教え、話せるようにせよ、といって来たことがあるんです。黒田さんは・・・『人間は口を閉じることが一番の苦痛だ。英語とタガログ語がいかんということは、フィリピン人に口を閉じろというにひとしい。現地の風俗習慣を重んじない。こんなやり方ってあるか』という訳です。
 ○ いつか、軍用米として内地から米を一万トンほど運んで来たことがあるんですが、軍は半分だけでいい、あとの半分は現地人に配給しろ、といわれたことがある。
  (前略)・・しかし黒田さんは、『・・・ともかく、アメリカはフィリピン人をいじめてはいない。善政を施しているんだから、アメリカ式の自由主義的な憲法じゃないといかん』といいましてね。だから、この方針を受けてできあがった共和国憲法というのは『日本国憲法とアメリカ憲法の中間的な』ものだった訳です。・・・(中略)・・・独立とともに、軍政監部はなくなり、わたしが課長になった参謀二課が・・・すべてを指導していくことになったのですが、このときも黒田さんは、わたしを呼んで、『独立したら彼らの国なんだ。おれたちは人の家を借りているんだから、・・・いままでどおりではいかんぞ』と注意してくれました。」


 以上が、黒田重徳中将が死刑を受けず、終身刑となった背景について残されている、知る部下の記述である。


(読後感想の他に、補論を入れましたら長くなって保存が出来なくなりました。、この後は、次の続編にアップ します)


ペタしてね