「マグミクス」の大人になって初代『ガンダム』を観ると苦しいという記事を読んで。 | ガンダム アラフィフ

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「マグミクス」に初代『ガンダム』大人になって観ると苦しい…「人間」が犠牲になるリアルな戦争描写という記事がありました。

 

私の場合は『機動戦士ガンダム』を観た小学生の頃でも、台詞や物語で戦争や登場人物の立ち位置、バックグラウンドなんかにも想像を張り巡らせるような感受性だったので、子供の頃にしっかり刻み込まれていることが多くて、大人になって観返してもやっぱりその子供時分に感じた事を思い出したりします。

 

例えば第8話の「戦場は荒野」とか、ジオンは敵のハズだけど、ホワイトベースを降りた民間人から離れて別行動する母子に補給物資を投下するなど、ジオン兵の優しさや人間性が垣間見えて、子供の感覚でもジオン兵に対しての見え方にちょっと変化が生じる話でした。

 

ジオン兵に母親が「どちらが勝っても負けても私のように夫を亡くす人がこれからも大勢出るんです」と言う台詞とか、亡き夫が育ったセントアンジェに行こうとしている母親に、ジオン兵が「ここがセントアンジェがあった場所です」と教えられて、戦争で町が跡形も無くなっていることを知って泣き崩れる母親とか、子供の頃ですら色々と考えてしまう話でした。

 

第11話の「イセリナ、恋のあと」でもイセリナがアムロに向かって銃を構え、「ガルマ様の仇」と言って崩れ落ちますが、そのイセリナを埋葬する際にアムロが「僕を仇と言ったんだ」とつぶやくシーンも、主人公が本人が知らないうちに仇になっていることとか、仇と言われたアムロの心情を子供時分でも考えてしまいました。

 

第13話の「再会、母よ…」でもアムロとカマリアが再会したシーンを観ていた子供がつぶやく「いいなぁ」という一言からも色々と感じて、かなりグッときたし考えさせられましたね。

 

第27話の「女スパイ潜入」でミハルとジルとミリーの別れの際、「お金の隠し場所は誰にも教えちゃだめだよ」、「少しずつ使うんだよ」と伝えた後の「姉ちゃん、母ちゃんのニオイがする」、「思い出させちゃったかね」という台詞のやり取りも、やっぱり戦争だったり、子供だけで生活することの厳しさ、大人に騙されて奪われるのではないだろうかとか色々と想像させられました。

 

ジルとミリーに関しては、大人になって大和田秀樹さんの漫画「機動戦士ガンダムさん」で株成金になったりする話を読んでからその話が過るようになって、しばらくはアニメで観ても漫画を思い出して感動できなくなってましたが、安彦良和さんの漫画「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」でセイラさんの財団で面倒みてるという話を読んで、また感動できるようになりました。

 

子供の頃は意味がよく分からなかったけど、大人になって意味を理解した台詞もあります。

 

第19話の「ランバ・ラル特攻!」で、ランバ・ラル隊が立ち寄った店でハモンさんがアムロの分も注文した際にラルが「あんな子が欲しいのか?」とハモンさんに言うと、ハモンさんも「そうね、」と言います。

 

子供の頃はピンと来ずに、二人の子供としてアムロみたいな子供が欲しいという意味なのだろうか?と思っていましたが、大人になると、あぁそういう意味だったのかって理解できました。

 

この「あんな子が欲しいのか?」も言い方のニュアンスで、ラルとハモンさんの関係性や、ハモンさんの人間性とかまで分かってしまうような凄い台詞ですよね。

 

ラルはフラットに言ったように記憶してますが、もし、ラルが驚くように言えば、満足していないのかと確認しているようにも受け取れる訳ですし、呆れるように言えばハモンさんは若い子と遊ぶのが結構好きな人なんだとラルも知ってて確認していると受け取れたりする訳ですからね。

 

他にもアムロとカマリアとの別れ際にカマリアを車で待っている男性は不倫相手だとか、ハモンさんも現在は内縁の妻という設定ですが、子供の頃はハモン・ラルとか愛人とかって設定の頃もあって、奥さんか愛人かどっちが本当なんだと思ったけど、昭和の頃はドラマや映画なんかでも普通に愛人って言葉はよく聴いていたから、愛人という設定でも普通に受け入れられる子供だったので、大人になって観返したり設定読んだりしたら、こういうキャラ設定や台詞、ドラマを子供向けにせずに作ってたから、大人になった今観ても良く出来ている作品だと感じられるのかなって思います。