第二のヒント  明治三十七、八年の日露戦争以後、身体強健な兵隊を訓練し、次の戦争でも勝利し、領土を広げたいというのが国家目的であったから、小銃操作は銃剣術、格闘のための短剣術と重要な課目であった。一二〇発の弾をベルトに装着し、肩に担いだ歩兵銃は、現在の後楽園球場隣にあった砲兵工廠で製造され「三八式」と名付けられて旅順攻撃に威力を発揮し、「村田銃」から見ると革命的な兵器だった。
 この銃が優秀であっても、それを操作する兵隊たちの中に、近眼でもないのに目標の識別ができず、役に立たないものがあった。

 ドールトンが亡くなって二十年後に明治と改元されているから、先の日清戦争でも色盲者の兵が不適格だということは軍医たちには知識としては知られていたが、どうやって選別するか、まことに厄介な問題であった。
$色盲はなおせるか。 浅利式色盲矯正法のすべて。

 ここに石原忍博士の考案した「色盲検査表」が現れ、判定の基準として、全世界に採用され、色覚異常者が、数多くの職業から除外される結果となってきた。

 色盲・色弱を理由として兵隊検査で不合格となることは、戦場に行って死ぬことがないにしても、何か不名誉な病気にでもかかっているのだろうとうわさをされる。 結婚もできない。
 不合格者の多くが、淋病や梅毒に罹患している者が多く、色覚異常者も同列の扱いを受ける。

 どうやったら、徴兵検査に合格できるか(軍人になりたい色覚異常者)
 どうやって、徴兵検査で不合格になるか(反戦思想・戦争非協力者)

 このような切実な声があったのだ。 
 
 この頃、反戦思想に共鳴する学生の中には、検査表を故意に誤答し、兵役を遺棄するものも出てきた。しかし、正常者が意図的に正答しないのを見破ることが困難であったから、検査表の中に答えを必要としないページを仕掛けたり、それなりに石原二等軍医正は工夫を凝らしている。

 与謝野晶子の「君しにたもうことなかれ」と公然かつ高らかに歌い上げた反戦歌、二葉亭四迷のように革命家との交流から、クレムリンの壁に片山潜とともに葬られたり、石川啄木も貧困の中から社会に心を寄せている。
 
 色盲・色弱と判定されて戦場に行かずに済んだ人、正常なるがゆえに愛する人と別れ、妻子を残して海に山に空に散って行った多くの人々。生きて再び母国の土を踏む事ができた著者は、色盲検査表の背景とその功罪を述べずにいられない。


赤眼鏡   一方では、検査に合格して軍人になりたいという男子も多く、色覚異常者向きの眼鏡が発売された。 東京、大阪、その他の都市には、現在の眼鏡店の二倍ぐらいの店舗がありそのショ―ウィンドーには鉄ぶち小判形のレンズとともに、赤ガラスのメガネが陳列されていた。 もちろん、緑ガラスのメガネもあった。 これは雪盲に効果があるというので、スキー愛好家向きの物であった。 青森と弘前の連隊が八甲田山に雪中行軍を試み大惨事となった時には、スキー隊は編成されていなかった。 著者が満州の軍隊生活で経験したスキーでは、紫外線用のメガネがなく白雪が次第に紫色に見え、目を閉じて雪盲にならないように注意したものである。

 色盲検査表をごまかして合格するために、暗記するものもある、7に見えたら2、5に見えたら3、というように頭の中で掛け算九九を唱えるようにする。 赤眼鏡をかけていると色盲が治ると信じた者もいた。

 実際に赤メガネをかけて検査表を読んでみると、全部正答するのである。
 これも簡単に体験できる。近所の小学校の前に学用品店があるだろう。そこに「色セロハン」が売られている。 赤セロハンを検査表の上に載せて表を透視すると、正しい答えを見ることができる。 赤セロハンを使わなっければ誤った答えになる。
 
  赤いメガネで検査表を見れば正答を得られる。これは事実だ。軍医も知っている。
 「眼鏡をはずせ!!」
 眼科医が裸眼を要求するのは当然である。
 最近では赤いコンタクトレンズが売り出されている。
 
 検査表を読むときには正答できる。しかしそのままでは白布が赤く見え、青いものが紫に見えるのだから、あまり賞賛に値するものではない。だが、この『赤いガラスや赤いセロハン、赤い電燈を使うと色盲検査表の答えが正答となるものだ』ということが、読者の期待している「色盲・色弱は家庭で治せる」という大発見への第二のヒントとなったのである。

(ドールトンの目 家庭で治せる色盲色弱  浅利 篤著  竹井出版より)