新しいブログを立ち上げました。

3rdシーズン突入です。
前回の記事で、雨季でずいぶん雨が降っていると書きましたが、
雨はまだまだ続いており、ジャカルタ一帯は大変な状況です。

道路・水路などのインフラが不十分なこの国で
これだけ雨がふると、いたる所が冠水し、それが渋滞を引き起こします。

道路の施工が悪いのでいたる道路に穴があき、それがまた渋滞を引き起こすのです。

雨がふっても穴があかない道路を作る事。
降った雨がきちんと雨水溝へ流れ、排水される事。
経済発展に見合った道路を整備する事などなど、
日本では当たり前すぎて気にも留めないことが
実は本当に重要だという事を改めて実感します。

会社からとなり町の家まで普段30分程度ですが、
ここ連日1時間30分程度かかっています。

雨(洪水)がおよぼす影響は交通麻痺だけではありません。


子どもの頃に覚えたこんな歌を思い出します。

♪ 南の島の大王は
♪ 子どもの名前もハメハメハ
♪ 学校ぎらいの子どもらで
♪ 風がふいたら遅刻(ちこく)して
♪ 雨がふったらお休みで
♪ ハメハメハ ハメハメハ
♪ ハメハメハメハメハ

子供だけでなく、大人も休みます! THEインドネシア!!



さて今回、関空からジャカルタへの移動中、
ソウルでのトランジットが6時間ありましたので
ソウル駅まで冒険してきました。

まずはイミグレ。
仁川国際空港のイミグレ職員はおおむね友好的です。
日本のパスポートだったら何も聞かれる事無くスムーズに出国できます。

とてもきれいな空港です。

まずはATMへ。

クレジットカードの海外キャッシング機能を使って
3万ウォンを出金。(約3000円です)

空港鉄道A'REXの案内表示にしたがって進むと、券売機があります。
なんとこの券売機、日本語に切り替えができるので大変便利です。

ソウル駅まで大人一枚で4500ウォンだったと思います。
お釣りとカードが出てきますので、
出てきたカードをSUICAの要領で改札にタッチすればOKです。

車両もキレイで日本語でもアナウンスしてくれるのでわかりやすいです。
約1時間の列車内ではみんながスマホをいじっています。

ソウル駅に到着したら、やはりSUICAと同じ要領で改札を出ましょう。
(カードを入れる所がありますが、入れずにタッチで出ます)

改札を出たらすぐそばにカードの返却機がありますので、
そこにカードを入れると保証金500ウォン(だったかな)が戻ってきます。

ソウル駅は大変広いのですが、電車の到着方向を向いて
2時の方向にどんどん進んでいきましょう。
KTX(韓国新幹線)の駅などをこえて2時の方向に進んでいくとソウル駅前に出られます。


ソウル駅



清潔感はありますが、あまりステキな駅ではありませんでした。

駅を出て向かうのは南大門です。歩いて行けます。
駅前は広い道路がありますが、地下道を使って道路の向こう側に出ます。
駅を背にして、さらに2時の方向に数分歩くと「南大門」があります。

南大門


どーん!
これが有名な南大門です。
(写っているおじさんは知らないおじさんです)
補修があまり上手ではありません。
そして周りには何もありません。
(残念名所に認定 笑)

敷地内にボランティアガイド?と思われる人たちが数人立っていました。
気持ちに余裕がなかったので声をかけませんでしたが、
声をかけたら色々教えてくれそうでした。

一応、門をくぐってみます。
天井に何か絵が書かれていましたが、イマイチでした…

門をくぐってふりかえった様子がこちら!
(ソウル駅方面です)

南大門2


門をくぐってさらに向こうを見ると、ちょっと見えました。
ソウルの新旧市庁舎。

市庁舎



旧庁舎をのみこむ津波をモチーフに作られたガラス貼りの建物が新庁舎です。

あまりの品位の無さに当の韓国人にも不評をかっている建物です。
近づきたくありません。

次の目的地、南大門市場に向かいます。

南大門をふたたびくぐって、すぐに左に曲がると地下道があります。
地下道に入って突き当りを左に、地下道を出て少し進むと
南大門市場です。

どーん!

南大門市場



アジアな屋台の雰囲気ですが、心なしか緊張感があります。

スキを見せずに市場内を歩きます。
いろんな物を売ってます。
日本語の案内や日本語もちらほら聞こえます。

昼時だったので1件の屋台へ。
小さなテーブルが5つの大き目の屋台。
ストーブもあります。

日本人だとわかると、先に食事をしていた日本人の女子グループに
勝手に紹介されるも、ソウルまで来て日本人と関わりたくもなく、1人で座りました。

屋台はおばちゃんと、片言日本語のお兄ちゃんで切り盛り。
こんな感じです。

屋台


雰囲気はあるよねー。
帰りの電車代を差し引いて2万ウォン(約2千円)あるので、
本場のまっこりでも飲んじゃおうかな?と思ってメニューを見ると高い!
おばちゃんはウナギやマッコリを積極的に売り込んできますが、
たぶん勧められるがままに頼んでいたら1万円いってたと思う。

200%観光地の高額屋台です。
(まあ値段表があったからボッタクリとは言いませんが…)

結局、スープと豚バラ焼き肉、焼きビーフンを注文して、丁度2万ウォン。
ありえない高さです。
量も少ない。
(写真撮る気も置きませんでした)

斜め前でチャミスル明けている日本人グループ。
ちゃんと値段見てるか?明らかに1人1万超えの雰囲気(涙)

いくら一等観光地だからといって、
ビール数本飲んで、ちょっと食べて1人1万円超えはないでしょ…
誰もリピートしなくなるよ…

価格表を確認して、注文した自分でさえ、
屋台で昼飯2千円は高いとショックを受けていたのに…


ちなみにインドネシアの屋台で2千円あれば、5人でお腹いっぱい食べられます!
ベトナムの屋台で2千円あれば、5人でお腹いっぱい+ビールも飲めます!


支払いを済ませて、足早にソウル駅に向かいました。

折れた心を癒やすために、空港へ戻ります。


はじめてのソウル訪問はあまり良い印象を受けませんでしたが、
仁川国際空港のアシアナ航空のビジネスラウンジは良いラウンジです。

シャワーをあびて、赤ワインとチーズと水をいただきました。
wifiも早いし、きれいなラウンジで満足です。


ソウルの頑張っている感はとても感じましたが、
やはり調和や質や品位というものがあらゆる所で大切なんだと感じました。
去年の12月1日にインドネシア出向を終えて日本に帰国した筈なんですが、
今年の春先に発生したクレームをきっかけにベトナムへ行き、
それから日本へ帰らずインドネシアに長期出張しています。

なが~い出張もあと一ヶ月半。
年末には日本へ帰る予定です。

日本には日本の良さがありますし、
インドネシアにはインドネシアの良さがありますし、
他の国も魅力的です。

この5年間は出張で色々な国へ行くことができました。
飛行機も海外出張も好きなので個人的には楽しく過ごせたシーズンでした。

インドネシアは雨季のようです。
毎日結構激しい雨がふります。
例年よりかなり振っている気がします。

常夏のインドネシアですが、雨上がりの夜ですと半袖で肌寒いくらいです。


気は早いですが正月は日本でゆっくり過ごせそうです。
さて来年はどこで何をしているのでしょうか。
自分でもわかりません。
ブログ大変ご無沙汰しておりました。

変化の無い生活を送っていましたが、先月後半から色々とあったので記事を書きたいと思います。2週間ほど、ベトナムの首都ハノイに出張していました。日曜日に街へ出掛けプチ観光してきましたので写真を4枚ご紹介します。

こんな写真を載せるとまた娘から鋭い批評がありそうです(笑)

まずハノイの街並みですが、中国とフランスの影響を色濃く感じる面白い街並みです。
ハノイの人たちはフランスパンを食べ、中華風の料理を好みます。
地元の料理は安くそしてとても味わい深いです。
$サラダパパのブログ-街並み


次は公園にいたアオザイ美人です。
真ん中ににやけたおじさんが立ってます。
(写真は公開終了ですw)

ハノイは海・川・湖に囲まれた素敵な街です。
日曜日の午後は地元の住民と観光客が大勢集まります。
$サラダパパのブログ-湖畔の公園


ベトナムの人たちは建国の父ホーチミンを深く慕っています。
彼の墓は壮大な公園に整備されています。
衛兵さんにお願いして写真を撮ってもらいました。
(こちらの写真も公開終了w)

ベトナムの人たちは明るくそして元気でした。
物怖じせず、人懐っこく、素直です。

また一つ好きな国が増えました。


クアラルンプール国際空港のBARにて。
帰国まであと半月になりました。

色々な人が何度も送別会を開いてくれたり、温かい言葉をかけてくれるので

嬉しいのですが、嬉しさの反対側にはちょっと気を許すと泣いちゃいそうな寂しさを感じます。

いい年して何を!を言われるかもしれませんが、

いい年だからこそ何気ない言葉が嬉しいというのもあると思います。



一年くらい前に、ジャカルタにJKT48が誕生した事をこのブログでご紹介しました。

帰国したらチャンスがないので、帰国前に一度観てみたいなと思っていました。

申し込みはメール抽選。

週末の公演に10月から何度か申し込むも続けて落選。

3回目の申し込みでやっと当選したので

先週末、ちょっと恥ずかしい気持ちを抑えて一人で観に行きました。


開演の1時間前までに当選メールとチケットを引き換えるよう!

との案内だったので開演の1時間半前に到着。

(ジャカルタ・スディルマンのFXというモールの4階にJKT48専用劇場があります)


劇場の周りは、すでにインドネシアの若いファンで大混雑。

チケットに交換する列に並ぶも遅々として進まず、

結局、開演時間ぎりぎりでチケットに交換。

さすがインドネシア。


開演時間になってもまだ会場に入れず、

開演時間を30分くらい過ぎた頃に会場へ。

当然、座れると思ったら、すでに座席はいっぱい。

立ち見でした。


劇場に入る前にすでに2時間くらい立っていたので

これから約2時間、立ちっぱなしかと思った瞬間、どっと疲れが(笑



で、感想。

JKT48はアイドルグループじゃなくて

ダンスパフォーマンスグループだと思いました。


広くないステージで4曲くらいずつ連続して歌って踊るのですが、

ステージから離れた立ち見席からでもメンバーたちが汗が見えるほど、

彼女たちは汗だくでめいいっぱいダンスします。

曲が終わるとMCになるのですが、

ステージも中盤を過ぎる頃には、息があがって喋れないほど。


AKBグループは口パクというのはよく知られていますが、

正直、口パクじゃなくちゃ無理!です(笑)。


テレビの歌番組とかで一曲だけ披露するような場合は

彼女たちの真価が分からないかな?と思います。



劇場で約2時間、汗だくで目一杯のパフォーマンスをする。



そこに彼女たちの真価があるように思いました。


しゃべれないほど息が上がっても、

笑顔で精一杯!次のパフォーマンスに向かう姿を見ているうちに、

じわじわと感動してしまいました。


AKB48の上位メンバーは売れすぎて、

「会いにいけないアイドル」などと言われていますが、

JKT48はまさに「会いにいけるアイドル」。

もっとファンが増えるだろうなと思います。



JKT48は2期生も発表され、AKBからも2名が移籍するようです。

移籍する二人に何よりも必要なのはインドネシア語でしょう。

最初は珍しさから受け入れられるかもしれませんが、

インドネシア語でファンとコミュニケーションできなければ、

すぐに埋もれてしまうでしょう。



上の動画は移籍組2名とJKTの中心メンバーの二人が共演している
ポカリスウェットのテレビCM。

インドネシアのテレビで頻繁に流れています。


AKBから移籍してくる二人は、

日本の本社から現地法人に出向してくる海外駐在員と同じような立場。

ローカル社員にくらべて色々な面で優遇されるはず。

その優遇分をおぎなって余りある働きが求められるのは当然です。

陰ながら二人の活躍を応援します。



中学二年の娘が明日から修学旅行に出かける。

前日の今日あたりが、一番楽しい時かもしれません。

奈良・京都二泊三日。



友達と大いにはしゃいで、思い出深い旅になればいいな、と思う。

万事順調に滞り無く旅行がすすむより、

少なからずトラブルやアクシデントがあった方がいいかもしれない。

こんな事を書くと、同級生のお父さんやお母さんに叱られるかもしれないが、

旅先でのトラブルやアクシデントは、とても良い勉強になると思う。


自分が中学の時は、平泉・松島へ行った。

今覚えているのは松島の海側の景色に感動した事と、

金色堂がガラスケースに入れられているのをみてがっかりした事。



高校の時はどこへ・・・しばらく思い出せなかったが、

十和田湖でのスキー合宿が修学旅行だったのを思い出した。

(確か、京都にするか、スキーにするかの生徒アンケートがあって、
 圧倒的多数決でスキーに決まった気がする)

覚えているのは雪質がよくてスキーが上手くなったと勘違いした事と、

学校で用意したヤッケで滑ってとても寒かった事。

でも、このスキー修学旅行はスキー三昧でとても楽しかった。





昨日、妻と電話で話していたら、

今回の奈良京都旅行の小遣いは1万円+班行動費との事。

丸1日、班で自由行動するので、その費用はお小遣いに上乗せできるらしい。

「でもそれって結局、無制限と同じだよね」と言って笑った。

娘は両方の祖父からお小遣いを一万円ずつ貰ったらしく、

「それで十分だろう」という事になった。

って言うか、

中学生の二泊三日で、お小遣い二万円で足らないとしたら、

「ちょっとオカシイだろう!」と言って笑った。


【豆知識】サラリーマンの平均小遣い月額39,600円ですから!



娘が言うには、班行動には

各班一人づつ海外から来た大学留学生が合流するらしい。

そしてその大学生の交通費や拝観料そして食事代まで、班で負担するらしいw

「そんなのオカシイ!」と娘は口を尖らせていたが、

確かにオカシイ(笑)。

でも、そんなおかしな事だらけの学校に行っているのだから仕方がない。


何だかんだ言ってミーハーな娘が

その留学生に色々と世話を焼いている姿が目に浮かぶ。


お土産には、写真とお土産話の2つをリクエストした。

どんなエピソードが聞けるのか楽しみだ。


最近、インドネシアの労働組合が活発に活動しています。

昨日も全国規模のデモでした。

デモと言っても、
1 仕事を放棄して、
2 道路を占拠して、
3 酷いて時は高速道路に侵入して
4 交通を麻痺させる。
5 気に入らない会社のフェンスを揺らして倒す。
6 もっと酷い時は、工場のゲートを封鎖して従業員を軟禁する。
くらいですから、

危ない場所に行かなければ身の危険を感じる事はありません。


デモの要求は
1 賃上げ
2 派遣や委託の廃止
です。

ただ組合活動に熱心なのは一部の人間で、
その他大勢は和を重んじて参加しているだけです。

こういう和を乱さない感覚は日本人以上だと思います。


総じて、組合活動に熱心な人は会社ではろくな仕事をしません。

傍から見ていると、まるで茶番。


目先の事しか考えない要求。
そして自分たちの要求が通らないと実力行使。

こういう事が自分たちの将来を少しずつ不利にしている事に気が付かないのです。

政府が弱腰すぎるというのも悪いのですが。


ただインドネシア人の場合、普段は相当レベルまで穏やかなのですが、
一度火がつくとトンデモナイ事になります。

日本で言う「切れた」「プッツンした」状態ですね。

平気で人を殺します。


もちろん日本でもそういう人間がいますが、

インドネシアの場合、未だ私刑が大目に見られる傾向があります。


つい先日もとあるミニバスがある村人を交通事故で事故死させてしまった事に腹を立てた

同じ村の人達が徒党を組んで同じ系列のミニバスを襲撃しました。

駆けつけた警察は見ているだけ。


まだまだこんなレベルの国です。

地方に行ったらもっとドギツイ事件が沢山あります。

ムスリムVSクリスチャンの抗争とか・・・

泥棒を隣近所総出でなぶり殺しとか・・・

人の命がまだまだ安い国なんです。



先回、書いた記事から2週間経過しましたが、

体重は変化ありません。

走る量が少ないのかな・・・



帰国まで2ヶ月を切りました。

行きつけのレストランで帰国の話をすると、

みんな「何で帰るの?帰っちゃだめだ!」と言ってくれるのが嬉しいです。


では。

前回の記事からちょうど2週間経過しましたが、

体重変動なし。81kg前後で推移しています。

いままでは約3週間スパンで低下してきたので、

地道に朝ランを続けたいと思います。



さて。

先日、現法の社長に呼ばれました。

私の中では予感はあったのですが、まさに的中。


一つの大きな仕事が収束する年末をもって

日本に帰国するようにとの内示でした。

予感していたとはいえ、なかなかのインパクトなんです。


私にはインドネシアはとても合っていたし、

もうすこしやり遂げたいという気持ちもありましたから。

何よりも今まで4年間一緒に苦労してきた仲間との別れが寂しい。


いずれにしても内示(辞令)一つでどこへでも行くのが

サラリーマンの宿命。

11月末をもって日本に帰国いたします。

12月は特別慰労休暇になるかな?

日本での業務開始は正月休み明けからかな。


ただ気持ち的には寂しいばかりではありません。

やはり日本が一番好きですし、すべてが素晴らしい日本に戻れるのは嬉しい。

そして家族もいます。


家族と離れていた4年間は

家族というものを見つめなおす良い機会でもありました。

戻ってからの目標は「口ケンカしない」ということでしょうか(笑

4年間、一人暮らしでダラダラとさせてもらいましたから、

帰国後はしっかりしなくてはいけませんね。



さて今週末はジャカルタマラソンに参加します。

ハーフマラソンはまだ無理そうなので、5Kランを走ってきます。

インドネシア人たちと、楽しく走れたらいいなあ~と思っています。


自分にとっても、自分のまわりにいる人にとっても
適正な体重を維持するのは大変重要な事です。

しかしながらこの重要なポイントを忘れた(無視した?)私は
単身赴任をきっかけに体重が増加したというのは前にも書いた通りです。


それで7月13日の日記に書いた通り朝ランをはじめた訳ですが、
途中経過を書きたいと思います。


尚、ジョギングの開始は7月8日です。



まず適正な体重の定義から。

一般的に使われているのはBMIという指標です。(Body Mass Indexの略)

BMI=体重(kg)÷身長(m)の二乗 で計算されます。

そしてBMI=22が医学的に最も病気のリスクが少ないと言われています。
(標準/適正体重はBMI18.5以上25未満とされています)

これを元に私の適正体重を計算すると
22=体重÷1.75^2 体重=22×1.75^2=67.4kgとなります。

しかし80kgオーバーの体重を67kgまで落とすのはあまりにも遠い道のり。
それで私が最初の目標にしたのは、適正体重の上限 BMI=25未満。
計算し直します。
25=体重÷1.75^2 体重=25×1.75^2=76.6kg
端数を切って目標は75kgとしました。


体重を記録するために
iPhoneに「シンプルウェイト」というアプリをインストール。
シンプルな機能ですが、体重を記録しグラフで見せてくれる良いソフトです。

7月8日朝 体重85kg


それからほぼ毎日、朝ランと体重の記録をつづけました。


しかし最初の2週間は体重変化ほとんどなし。
83kg~85kgの間をいったりきたりするだけでした。

それでも実感としてはウェストまわりが少し楽になったかな?
という印象はありました。

でも数字に現れない。
モチベーションは大いに下がりました。

ネットで検索してみると、
いくつか当てはまりそうな情報がありました。


・脂肪を燃焼させても筋肉がつくから体重はすぐには変化しない。
 (しかも筋肉のほうが比重が高い=重い)

・しかし脂肪を減らして、筋肉を付けるのは重要
  エネルギーを消費しやすい体質に!

・脂肪を燃焼させるには最低30分の運動が必要


この情報に基いて、
これまで20分程度だったランニング時間を最低30分に増やしました。

起床時間も変更し5時15分に目覚ましをかけて
5時30分にはベットから出るようにしています。

体重に変化が見られたのは走り始めて3週間後の7月29日の朝。


7月29日朝 体重82.5kg


しかしそれからしばらくはまたも変化が見られず、
逆に大きく増えて84kgを記録する日も。


しかし実感としてお腹のでっぱりが少し小さくなってきたし、
ウェストやももも明らかに細くなっているのを感じていました。


次のウェーブが来たのは4週間後の8月26日朝。

8月26日朝 体重81.0kg


やったー!!

これは本当に嬉しい!


コツコツと走ってきた成果があらわれた瞬間です。

9月に入ってからは80kgを記録する日も。


最初の2週間は結果が出ない辛い時期でしたが、

結果的には約2ヶ月で-4kgの減少。


目標まであと6kgです。



全般的にあきっぽい私がモチベーションを維持できたのは
理由はいくつかありますが、


1 runtasticというジョギングのアプリを使ったこと

  毎日の走行ルート、距離、時間をiPhoneで記録し、
  ネットで集計結果を見られる。

2 どうしても起きられない朝は「超回復の時間」と積極的に考えたこと

3 食事制限をしないこと

  意識しているのは、食事の最初になるべく野菜を食べることと、
  こまめに水を飲むことだけ。

4 お酒も一切制限していないこと

5 ランニングのためのグッズを少しづつ買ったこと


食事制限によるダイエットは、デメリットが多いと感じます。

・我慢するストレス
・摂取量が少ないことに体が反応して余計に溜め込みやすい体質になる
・少ないエネルギーで動くために筋肉が燃焼しにくくなる。
・たがが外れた時のリバウンドの恐怖


そんな訳で食事・アルコール制限なしのダイエットを

目標達成までがんばりたいと思います。


※体重をはかるようになって気が付いたのは
 一日のうちでも最大2kgくらの変動があるということでした。
 私の場合は夜寝る前が一番重いです。


なお、適正な体重を目指すようになったきっかけは3つです。

こんなオヤジ絶対嫌ですよね!


1 Tシャツはおろかポロシャツでも
  おなかのでっばり目立つようになったこと

2 靴下をはく体勢がくるしくなったこと 

3 うつぶせで寝ると苦しくなったこと ※現時点でこれは解消しました。

ボクが通っていた小さな小学校には有名ないじめっ子がいました。

名前はT田君。


昨今騒がれているような陰湿・深刻ないじめとは違ったと思います。

昔ながらの?いじめっこ。暴れん坊。


先生たちもT田君には手を焼いていました。

女の子も男の子もよくT田君に泣かされていました。



5年生の時、ボクはT田君と同じクラスになりました。

「嫌だな」と思ったのを覚えています。


実はその頃、ボクは正義感が強いほうで。

どこのクラスにも居たでしょう?口を尖らして正義を振りかざす奴が。

ボクはそんなタイプでした。


2学期になってT田君とボクは同じ班になり、ボクは班長に。

班長の毎朝の仕事は、メンバーの宿題を集めて先生に提出することです。


案の定、T田君は宿題を提出しません。

ボクは毎日、T田君に催促する訳ですが、

ある日、T田君はしつこく催促するボクにくってかかってきました。


(今思うとボクはその瞬間を待っていたのかもしれません)


売り言葉に買い言葉、そして取っ組み合いの喧嘩です。





でも実はボク、喧嘩強いんです。

クラスメートが騒ぎ立てる中、ボクはT田君に勝ちました。


喧嘩に負けたT田君は・・・何とクラスメートの前で泣きだしてしまったのです。




その日はT田君にとって大きなターニングポイントになりました。

T田君のいじめっことしての影響力は崩れ去り、

それまでT田君にさんざん泣かされていた同級生が、

今度はT田君を泣かすようになりました。



最初のうちは誰もが「いい気味だ!」と思っていたでしょう。

ボクもそう思っていました。

担任の先生もボクのことを叱るどころか、褒めたように記憶しています。


担任の先生はボクの事をT田君の指導係のように扱い、

ボクも先生に認められているという得意げな気持ちをもっていました。

(まこと恥ずかしいくらい、下らない虚栄心ですね)




私の住んでいた地域は田舎だったので

小学校の卒業生が、そのまま持ち上がって中学に入学しました。



ですから、中学に入ってもT田君の立場は変わりません。




中学1年か2年の時だったと思います。

T田君が連続して学校を休んだので、

ボクは先生から頼まれた届け物をT田君の家に持っていきました。


T田君の家に行くと出てきたのはおばあちゃん。

何とT田君はおばあちゃんと二人で暮らしていたのです。

おばあちゃんは、T田君にはお父さんもお母さんもいないことを教えてくれました。


何度もお礼を言われて、○○をよろしくね、仲良くしてやってね、と

おばあちゃんはボクに言いました。


ボクは両親が居ない理由を誰にも聞きませんでしたが、

ボクは何か罪悪感のようなものを感じました。




実はT田君、勉強がさっぱりできませんでした。

高校受験が近づいた頃、推薦入学で早々と高校が決まっていたボクは

放課後にT田君に勉強を教えるようになりました。


でもT田君は基本的な所を理解するのが精一杯で、

とてもテスト問題を解けるレベルにはなりませんでした。


結局、T田君はその地域で一番受験が簡単と言われていた、

隣町の農業高校を受験しましたが、不合格。

滑り止めの私立も受験していませんでした。




T田君がどんな進路に進んだかは覚えていません。

調理専門学校だったか、就職だったか。



特別に仲良しでもなかったボクとT田君は中学を卒業して以来、

何のやりとりもしていませんでした。





それから4年後。19歳の時。



ボクは同級生から連絡を受けました。

T田君が交通事故で死んだって。




免許と車を手にしたT田君は

ゆるいカーブの幹線道路をオーバースピードでつっこみ、

電柱に激突。



単独死亡事故でした。



ボクが葬式に行くと、あのおばあちゃんが小さくなって座っていました。

ボクは、おばあちゃんにも、そしてT田君にかける言葉がありませんでした。


そしてなぜかまた罪悪感を感じたのを覚えています。







「 T田君がもし、ずーといじめっ子のままでいられたら? 」











二十歳の成人式の日に、ボクは同窓会に出席しました。

そこでT田君の思い出話をする人は誰もいませんでした。










これはボクの心にずーーとひっかかっているT田君の思い出です。


「しげちゃん!」