フルベッキ写真をフルボッコ | ジョバンニ松村のブルースとキャデラックな夜。

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とだじゃれのタイトルを付けてみたが、
この侍の集合写真。人物表記間違いだらけだとおもった人はいないのか?
これはかなり酷いと思う。独りや二人ではない。

こんなの歴史が好きな人や近代史の専門家がやるべき仕事なのだが自虐史観、戦後レジームに洗脳され切った人々はよほど真実が見えない物と思える。愛国や保守を語る人でもちょっとでも自分は洗脳されていると自覚しなければ成らない。
西尾幹二が如何に感覚的に正しい事をいっているか、実感する。

まあそれはそれとして、
まず私の独断と偏見で切っていく。誰か修正してくれるならして欲しい。
タグ付けがフェイスブック以下のを放っておく手は無い。

21番
これは桂小五郎。

小五郎




18番
顔の長さで行くと高杉晋作じゃなかろうか?

た

12番の大久保利通は絶対に違う。私は板垣退助じゃないかと思ったがこれは微妙。
大久保はこんなに顔が長くないし眼も骨格も違う。しかも当人は美男子だ。


これはそこまで自信が無い。
着物が違い中心にいるので相当な大物である事には間違いないのだが、、、。

しかし、
43番は龍馬ではなく絶対に伊藤博文だ。

はくぶん

ほら

博文

龍馬の顔の有名写真の顔の角度だけで名前を記載した人は判断していると思う。

29と27はいい線を付いていると思う。
25番はそっくりだがこの頃はぽっちゃりされてたのだろうか?
陸奥といえば、ガリガリの面長のイメージしかない。
この人は過労死の可能性がある。

1番は絶対、勝海舟ではない。あの人はもっと奥目でラテン南米系外人顏だ。

こんなの輪郭、額、頬骨、顔の長さ、目鼻立ち口、身長で若い頃の写真三枚とタグ付けようソフトぐらいで特定出来そうなものなのに…
この写真はかなり有名になりつつあるのに中途半端に感激して、疑わない人達が沢山いる。
こう言うのから正していかないと、何も後世にまともな情報を伝える事なんて出来ない。

近代史等は特に酷い。マルクス史観、唯物史観、社会主義が歴史を飯櫃な物にしてしまっている。
科学史観も当てにならない。科学は進歩するからだ。
新しい科学が民族主義者の方につく事なんてざらにある。
民族主義はロケットを宇宙までとばす。しかし唯物主義者は内にこもって歴史も行動、自由な発想も閉じ込めてしまう。本居宣長の言う「賢しらごころ」というやつだろう。意外に信心のある非科学的と思える科学者などがいるのはそのためというのは周知のじじつであろう。

というのも、近代史が最近になって自分の中でやっと江戸と明治からいままで繋がった。

明治維新は超常現象か奇跡のような降って出た宇宙人のような天才達ではないということを理解するには、西郷や松蔭、水戸学にまで遡らねば行けないのだが、この辺をちゃんと調べている人に左の人がさっぱりおらず、西郷さんの事なんて、イデオロギーの固まらない微妙な世代の作家が書いた俗小説みたいな物ばかりなのには驚かさせられる。これでは殆どの人が理解してないと思って良い。

結局、西南戦争やその動きを知るには、最低でも林房雄ぐらいを読まないと西郷さんの事ですら理解出来ない。逆にあの人の政治力や、したたかなやり方で正義を通す男いきなどは黒澤明の用心棒なんかに現れているのをみると、今の人にああいった映画が作れないのは、あの世代の哲学にあると確信できる。
水戸学の空気を全く吸わなくして育った戦後の世代にはおそらく判らない。吉田松陰や島津成彬、藤田東湖が何を考えていたか?と言う所なのだ。重要なのは平和だった大正デモクラシーの時代もずっとその潮流が流れていたにもかかわらず、戦後にそれらの研究書物などがGHQに多数没収されてしまった所にある。

私の世代の道徳観や哲学が戦後レジームの影響を強烈に受けた漫画から来ていると言うのは私には耐えられる物ではない。その漫画をみている様なオタクがこれぐらいの人物を見抜いているサイトかブログが無いとなるとぞっとする。西尾幹二の国民の歴史を読んでジェームス・ブラウン先生でも聞いて縄文からの大和魂を感じた方が良いんじゃないか?と。
このフルベッキ写真の名前の振り当て方より今の教員が教えている史観はもっと酷いんじゃないか?と考えないと日本は手遅れになる。

戦前戦時中の思想もそうだが、戦争世代を子供で過ごした人達の名著の数々が書店から姿をけして、学生運動すら知らない我々の世代の保守史観がどんどん出て来ている。

だから林房雄までもどる(解説か後書きを書いたりしている)竹田さんはまともだとつくづく思う。感覚的にあったこと、もしくは自然な事をやると言う意味でわたしは西尾さんも竹田さんも尊敬する。心配しなくても地球思想というのは右翼のレッテルを貼られる人ももっていたのである。別に宮崎駿か手塚治虫が産んだものではない。むしろ社会主義とか原理主義。民族主義でもそっちに浅はかにも傾く潮流とは意を殺してでも戦わないと行けない事を先人は教えてくれたのではないか?


これからの世代は疑う事と拡張する事と食い込んで骨の随まで吸い付くすまで離さない愛を持つ事をやらねば成らないのではないか?と自己の取り組み方に対しても考える。

私のやっている音楽なんかでもいくらブルースロックを聞いてもブルースに成らないブルースギタリスみたいになってしまうのと一緒だ。だったらブルースを聴き、歴史の当事者から聞き出すしか無いということではないのだろうか?こう言った古い音楽に関してはみんなが聞いている物を聞いて喜んでいるようでは駄目なのである。拡げながらも哲学をもって厳選するのである。その時代を生きた音楽好きの年長者等に寄り添って、どんどん遡って大物のバックで演奏している本物の演奏等を聞いていくだけでも醍醐味というものなのだ。すぐにやれと言って性格にマネ出来ないが完璧な一つの形をもっている演奏家のなんと多い事か、、、。

それはそうと、
もっと人々は当たり前の事を疑わなければ行けない。
今テレビでやっている歴史物なんて、戦後レジームのインチキ歴史の残りかすみたいなところがあるのは仕方が無い。どこまで史実と当てておもしろおかしくするか?みたいな私情を今の作家は挟み過ぎてリアリティが無い。史実上は太ったそう美しくない人物であろうが、ヒロインになればやたら美人を使ったり歴史に対する冒涜が既にそこでも始まっている。
それでも八重の櫻というドラマでは徳富蘇峰が出て来たと言うのだから驚きだ。
(林房雄云く戦前戦時中でも蘇峰を嫌う人が多かったらしい)水戸学を日本にいる文学や思想の教授は再建しなければ成らない。征韓論は勿論外してである。

ということで、最近の私の興味の対象は水戸学である。
しかし、見事なぐらい本も無く現代訳された物が無い。
儒教、朱子学、韓非子などの漢学がまざったいかがわしい昔の物等といってはいけない。
それを言えば、聖書も、ギリシャどころか、聖書が根本に立つドイツの哲学も一緒。

私は個人的には葉隠どころではないと思っている。
水戸学の教えがなくてあんなに簡単に明治維新にいくことは不可能だった筈で、江戸時代の漢学者や国学者は日本思想と言う物を立派に作り上げた。

和製漢学、和製仏教。しかも本居宣長以降の物が思想や哲学的に悪い訳が無い。

しかも、文献学的にも原本が残っている率が高い。

聖書は原点のギリシャ語は存在せず、プラトンに関しては多くの物がアラビア人にアレキサンドリヤを滅ぼされそこから翻訳を点々とした物があるとか。
原本が奇跡的に残っていたのは溶岩の中から箱の中に入ったパピルスがでてきたエピクロスぐらいだった。