長らくゴジラにあこがれていた。
あの放射能にあこがれていた。
「オレも出したい」
だが、飲んで帰った朝方、酒臭い息を思いっきり吐くだけだ。
それに火を点けても火はつかない。
いや、ずいぶん昔、ライブ中にロンリコの瓶をまるまる一気した事があったが、
その時試せば、もしかしたら火がついたかもしれない。
でもあの時は、気が付いたら朝のベッドの中だった。


深夜の池袋でゴジラを見た。
東京に出てきてすぐの頃だ。
文芸坐オールナイト、本田猪四郎特集4本立てだった。
客は結構多かった。
中でも年配の客が割合多く、深夜なのに場内は活気があった。
池袋のあの辺りはススっぽい。
しかも地下の古い映画館。
灯りが落とされ、スクリーンに光が写ると、まるで戦後まもない映画館にいる
ような感覚に襲われた。
暗闇の中、いたるところで煙草の煙があがる。
カシャカシャまわる映写機、その光源から飛び出す光の先にゴジラのタイトルが
現れた。
すると、客席のいたる所から歓声と拍手があがった。
脚本家の名前、俳優の名前、監督の名前、それらがスクリーンに現れる毎に、
歓声と拍手が起きた。


ゴジラ映画を初めて見たのは8歳の時だ。
長崎諫早の繁華街の角にある映画館だった。
向いの角の映画館ではガメラがやっていた。
見た映画はゴジラ対ヘドラ。
公害怪獣とゴジラの戦いだ。
怪獣映画なのに、大人が見る映画のようだと思い、テレビで見る怪獣映画より
見た後の満足感はでかかった。
10歳の時に見たゴジラ対メカゴジラの看板に、ゴジラ誕生20周年記念と
書かれていたから驚いた。
「オレが生まれる10年前からゴジラは始まっとるんけ!?」
そうなのだ。
その頃はただの正義の味方になっていたゴジラとは違うゴジラがいた事を
深夜の池袋で知る。


白黒の画面にゴジラの雄叫び。
圧巻は東京上陸だ。
後で知った話だが、このゴジラの上陸コースは、東京大空襲の時の、
アメリカの爆撃機B29大編隊の侵入ルートの再現だと知った。
ゴジラは大娯楽大作だ。
だが、やはりそこには、時代の影が色濃い。
東京が次々の破壊されていく様子は、焼け野原になった東京を知った者だけの
強烈なメッセージがあるのだろう。
あの精巧なミニチュアにも、気合いが入っていたのだ。
これも後で知った話だが、その前年の1953年に‘原子怪獣現る’という
アメリカ映画が公開されている。
この頃の日本は、パクリ天国だ。
円谷英二の頭の中には、似たような構想と下地がすでにあったが、
あらすじを読むかぎり、ゴジラそのままだ。
しかし、パクリだけでは終わらない気合いと情熱が、ゴジラを世界の怪獣映画の
最高峰に押し上げた。
そしてその年に起きた大事件も、ゴジラ誕生の重要な引き金となる。
1954年、ビキニ環礁で水爆実験が行われ、日本のマグロ漁船「第5福竜丸」
が被爆するという事件が起きた。
ヒロシマ・ナガサキを経験した日本には、ものすごい衝撃だった。
その直後に、本多猪四郎と円谷英二は、ゴジラを作った。
おもしろい物を作りたいという気持ちプラス、戦争と放射能の恐怖を、
ちゃんと描かねばという本気度が、そこに重くあったに違いない。
あの池袋の夜、何も知らずに「ゴジラ」を見た。
ゴジラ登場シーンに目を輝かせながらも、古い戦争映画を見ているような
気になった。


ゴジラは世界で空前の大ヒットとなる。
その大ヒットを受けて、次々と新しいゴジラが生まれる。
そして子供向けのヒーローとなった。
その時の子供が自分達だ。
背中を光らせて、放射能を吐くシーンにはしびれた。
かっこいいと思った。
オレも吐きたいと思った。


あれから約50年後、真の放射能の衝撃が日本を襲っている。
25年前にはチェルノブイリがあったが、日本には直接の被害がなかったので、
多くの日本人には、ただのテレビの中の世界だった。
だが今、直接だ。初めて目が覚める。


映画の中で、志村喬ふんする科学者がゴジラの捕獲を主張した。
しかしそれはできず、抹殺する方法が選らばれた。
それは正しいだろう。
「ついつい」とか「まあ、いいか」となってしまう人間。
のど元過ぎれば熱さを忘れる人間。
それ自体は決して悪い事ばかりじゃない。
人間はそういう性質を持つ生物だ。
だがそんな生物に、放射能という怪獣は、絶対にうまく利用なんかできない。


忌野清志郎さんが歌っていたメッセージが、今さらながら思い起こされる。
「放射能はいらねえ 牛乳を飲みてぇ」
「知らねえうちに 漏れていた あきれたもんだなサマータイムブルース」