【ワンスアポンアタイム 雪】




お湯を入れた銀だらいを、母親が大急ぎで持ってきた。
胸元でタプタプこぼれそうだった。
「ほらほら、ここにつけて」
凍えた手をゆっくり、ゆっくりお湯につける。
湯気がたつお湯の下で、指の先がジ~ンとした。


幼稚園の時、剣道の寒稽古があった。
朝、暗い時間に起こされた。
剣道着に着替えさせられて玄関を出ると、雪が地面に薄く積もっていた。
行きたくなかった。
でも行く事が、普通の事になっていた。
剣道の防具を抱えて、薄い雪を踏みながら、ひとりで山を下りていった。


長崎県諫早市福田町の山のてっぺんにあった県営住宅に住んでいた。
そこから町の道場までは、子供の足で1時間程だったろうか。
記憶の中では結構ある。
誰もいない暗い坂道を、白く薄い雪を踏んでいった。
寒稽古は数日あったが、その日の事だけを強烈に憶えている。
思えば、人生で初めての雪だったのかもしれない。
大人になり、東京で朝に現場に行く時、ぼた雪が降っていた事がある。
駅に向かう途中、声がした。
「私、こんな大きな雪、生まれて初めて」
声のする方を見ると、ちょこんと紺のベレー帽をかぶり、紺の制服に黒の傘を
さした、ちっちゃな女の子達だった。
小1ぐらいだろうか、ゾロゾロ同じ駅に向かっていた。
「そんなのあたりまえじゃ」と思いながら、なんだかおかしかった。
しかし、寒稽古に向かう幼稚園のオレも、その女の子に似たような感動というか、
感情を持っていた気がする。
雪の前でこころが白かった。
他に考える事はそんなになく、ただ無心に雪を踏んで歩いた。
ザクザク、音と感触がおもしろかった。
ただメチャクチャ寒かった。
帰りの上り坂で、「ううっ」と何かうめいていた。
そして玄関を開け中に入ると、銀ダライのお湯が待っていた。


今思うと、そんな朝早く、しかも雪の日に、幼稚園の子をひとりで出すとは
どういうこっちゃ。
稽古が終わり、車で迎えに来た他のお母さん達が、同情の顔でオレを見ていた。
「だったら、乗っけてくれ!」とこころで思ったが、誰も乗せてくれなかった。
たぶん、後から考えると、オレの母親の方針だったのだろう。
大人になってその事に苦言を呈した事がある。すると母親はこう返した。
「あんたは生まれた時から、なんかしっかりしとったけん」
う~ん、ようわからん。
まあ、でもいいだろう。
あの日の雪の記憶が、今もまだ鮮明に残っているのだから。
そして、あの時の白いこころを、ぼんやりと思い出す事ができるのだから。
その事に感謝したほうがいい。


数日あった寒稽古で、雪の日だけを憶えていると言ったが、もう一日憶えていた。
別の日の朝、母親がちょっとだけ寝坊した。
その時、「今日は休みにしようか」そう言ってくれた時、こころの底から
うれしかった。


雪の中にしかない記憶がある。
天気予報で、長崎についた雪のマークを見て、子供の頃の雪を思い出した。