【トンカツ屋のみそ汁】


「あれ?なんだこの味は!?」
初めて入ったトンカツ屋で、みそ汁のお椀を持ったまま、オレは首をかしげた。
みそ汁の味が、なんだかとてつもなくおいしかった。


二十歳になる直前に、オレは高田馬場から渋谷本町のアパートに引っ越している。
新しく越してきたアパートは、木造2階建ての2階にあり、6畳と2畳ほどの
キッチンに和式のトイレがついていた。
それまで住んでいた高田馬場のアパートが3畳一間だった事もあり、
新居に越してきたその日の夜の興奮は忘れられない。
6畳の左半分に布団を敷いた。
電気を消し、バタンと寝て上を向いた。闇に木の天井が広かった。
枕の上で首をゴロリと動かして、布団が敷かれていない右半分を見た。
そこには、今まで住んでいた3畳の大きさが、もう一つまるまるあった。
掛け布団の中でゾクゾクっとした。
こころが、6畳の夜にワーっと少しふくらんだ。


それから間もないある日、食事をしようと近所にでた。
込み入った住宅街の細い道をくねくねして、バスが通う栄町通りにでた。
その通りに立つと、道のむこう2,3キロ先に、新宿高層ビル群が見える。
道を渡って、高層ビルとは反対方向に向かってちょっと歩いた。
一軒の小さなトンカツ屋があった。
「トンカツ定食500円」、黒マーカーで書かれたホワイトボードが、
古いガラスケースの中にあった。
「お!500円で、ちょっとしたごちそうが食える」そう思った。
のれんには黄色地に「檜」と書かれている。
その黄色いのれんにあたまをくぐらせながら、白いガラス戸に手をかけて、
がらがらっと中に入った。
「いらっしゃいませ!」
髪の毛が白くパリっと短い小太りのよさそうなおじさんと、エプロンで背の高い
おばさんがニコッとそこにいた。
どうやら夫婦でやっている店らしい。
中にはカウンターとテーブルが二つあった。
ひとつのテーブルに座ってトンカツ定食を頼んだ。
カウンターの向こうでプチプチ油がいい音といい臭いを立て始めた。


「ごっそうさん!」がらがら。
後ろ手でガラス戸を閉めて、外に出た。
道を歩きながら思った。
「トンカツうまかった」
それと、あのみそ汁の不思議なうまさも強く口に残った。
その日から、週に一回以上は、その店でトンカツ定食を食べたように思う。
渋谷本町のアパートには、それから約4年間いた。
その4年の間に一回だけ、田舎の島根の松江に帰ったことがある。
そこでオレは、やっと気づいたのだ。


オレは帰郷の食卓にいた。
目の前にみそ汁があった。
お椀を持ち、口をつけた。
一瞬、煮え湯を飲まされた様な顔をしたかもしれない。
驚いた。自分の中の空白だった何かに驚いた。
「うわ!?これだ!」
それはまさしく、トンカツ屋のみそ汁と同じ味だった。
しじみのみそ汁だった。
松江の西には宍道湖が大きく広がる。
そこでとれるしじみはなかなか有名だ。
「なんてこった」
お椀を抱えて少し呆然とした。
オレは子供の頃からしょっちゅうこのみそ汁を飲んでいた。
それに初めて気づく。
ガキのオレは、あまりにも一直線にしか物を見てないと思った。
まわりがまるで見えていない。
しかしその一方で、その頭に不思議さを感じた。
ぎすぎす荒く洗練されない、太い炭の固まりのような物が、頭にズーンと
横たわるのを感じた。
そしてその後ようやく、自分のへんてこさに笑った。


渋谷本町のアパートを引っ越した後も、たまに、「檜」にトンカツを
食べに行った。
ところがある時行くと、店がなくなっていたのだ。
「えー、オイ、ちょっと待てよ」
のれんの無いガラス戸の前で、いる場所が間違いでないかキョロキョロした。
二十歳前の頃からすると、多少高級なトンカツを食べる機会もあったが、
「檜」のトンカツの味に勝るトンカツは未だに無い。
また食べたい。
あの店がどこに行ったか、誰か知っていたら教えてくれ!