【有明海のライオン】


小学校に上がったばかりだったろうか、その前だったろうか?
家族で有明海に海水浴に行った。
海が黒かった。そこでオレは生まれて初めての恐怖を味わった。


突然、海の中に投げ出された。ブクブク水の中を必死にもがいた。
顔を出してとっさに何かをわめいた。目の前に母親がいた。
母親にとりつこうと、手足をメチャクチャに動かし水しぶきをあげた。
だがどんどん沈んでいく。怖かった。
目ん玉の前に黒い海面がもりあがりもりあがりオレにせまる。
母親はオレを海の中から抱きあげると、再び海の中にオレを飛ばした。
母親の後ろの空に灰色の雲があったのをよく憶えている。
投げ出された目の前には父親がいた。
父親にとりつくとまた海に投げ出された。
二人は笑っているようだったが、それがなんだか不気味で、無性に頭に来た。
オレのわめく声は泣き声に変わっていた。


ものすごく長い時間、その恐怖は続いた気がした。
だが実際はそうでもなかったろう。
それは子供に泳ぎを憶えさせようとする親の愛のムチだったのだろうが、
ずいぶん乱暴な教え方だ。
昔の親はそういうたぐいの教え方が普通だった。


海からあがってオレは相当激しく文句を言った。
そんな時、母親は決まって言うセリフがあった。
「ライオンは我が子を千尋の谷に落とし、はい上がってきた子だけを育てる!」
「はあ~!?」ため息をつきながらいつも聞いた。
だがそこで「オレ、ライオンじゃねえし」とは思わない。
実はその言葉は、ちょっぴりだけどオレを興奮させていた。
「そうかオレはライオンの子か、だったらしょうがないゼ」
崖の上を必死にはい上がるライオンの自分を少しだけ想像していた。
かと言って母親と父親がライオンだと思った事はないのだが。
かと言って無性に腑に落ちない気持ちが解消されたわけでは無いのだが。


いろんな海がある。
日本海、太平洋、瀬戸内海、奄美大島の海、スペイン、サンフランシスコの海。
それぞれにきれいな思い出を持つが、海と言われて真っ先に思い浮かべるのが、
悲しいかな、有明海の恐怖の黒い海だ。
しかもあの時常に目ん玉にせまっていた海面である。
まあ、有明海からすればしごく一方的で迷惑な話かもしれないけどさ。