【忘れ物の教室】

 

 

小学生の頃、たった一人で暗い教室に忘れ物を取りに行った事
がある。

 

 

 

 

 

すっかり陽は落ちていた。校舎に入ると真っ暗だった。
用務員のおじさんに借りた懐中電灯をたよりに、
階段を駆け上がって廊下を渡っていった。
3階の自分の教室の前に立って、恐る恐るドアを開けた。
校庭の照明のオレンジの明かりが教室の中を照らしていた。
スタスタと自分の机に歩み寄り机の中をまさぐったら、
そこに忘れ物があった。ホッとした直後、幽霊にでも見られて
いるような気がしてあわててかけだしていた。1階に戻り、
用務員のおじさんに懐中電灯を返して裏口から出た。
遠く外灯の下に校門が見えた。

 

 

 

 

 

 

学校は宍道湖という湖のほとりに建っていた。
校門を左に曲がるとその湖が見える。

 

 

よせてはかえす湖の静かな波の音。その音を聞きながら歩くうち
に、オレの身体はだんだん大きくなっていった。
気がついたらあれから30年も歩いている。
今までオレはいろんな道を歩き、いろんな物を忘れてきた。

あげれば切りがない。

しかし無くしてしまった物に対しての後悔は案外とない。

だけどふと思った。

ひょっとすると、大事な記憶や思い出まで、過去のどこかに忘れ物として

置いてきているのじゃあないだろうか。

 

 

 

 

突然、昔の記憶が何かのはずみで自分の頭に蘇る時、
ほんの少しショックを受ける事がある。

 

 

それは決して忘れまいと誓っていた事であったりするかもしれないし、

今は仲違いした友達や、別れてしまったかつての恋人が、

昔、束の間に見せたやさしさだったりするかもしれない。

ああ、オレはこんな大事な事を忘れかけていたのだ。
 

暗い記憶の部屋の扉を恐る恐る開けて、その中を懐中電灯で
照らし出す。そこにあった古い記憶をそっと手にして
カイロのように自分の心にあててみた。

 

 

湖の静かな波の音は、横を通るヘッドライトの車の音に
かき消された。オレは道の反対側へ行くために歩道橋を渡り、
降りると自分の家まで駆けた。
背中から湖の暗闇が追いかけて来るような気がした。

 

 

 

玄関をガラっと開けると、蛍光灯の光の中、テレビの音と共に
家族の姿がそこにあった。いつもの夕飯前の騒々しさがいきなり
目の前にあった。オレに気づいた母親が台所からでっかい声を
ぶつける。「誠二!!忘れ物あったか。」「うん、あったあった」
と言ってオレは2階の子供部屋に昇っていった。