運命って言う言葉は日常的に使われるものではあるが?

その運命を我が身に感じる体験と言うのは、そんなに頻繁には訪れない物だと思う。

長い人生の中で?両手で数えられる程度?もしくは片手で数えられる程度なのかも知れない。

自分は生まれてから今日まで…東京都民でなかった日はない。

そんな自分でも、この年になってから初めて訪れた場所…って言う土地も少なくはない。

2012年…その初めて訪れた場所が、少なくとも今日までの自分に公私共に深く関わる形になるのだから?

これも運命と捉えるしかない…と考えている。

2012年に初めて訪れた場所…

それが台東区松が谷と言う土地である。

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ごく僅かにしか離れてはいないのだが?

この松が谷の一歩手前と言える土地までなら?馴染みは深かった。

浅草ビューホテル近くにある、生バンドが演奏する店で…諸外国な方達がバンドメンバーであったハコでギターを弾いていたこともある。

とっくの昔に手元にはないのだが?

人生初のFender Stratocaster を購入して、そのストラトが活躍していた時期だ。

人生初のFender Stratocasterを購入出来たのは…
バンドを始めてから8年も後の事である。

これ又運命…としか言いようがないのだが?人生初の大病を患い…長期入院後に職を転々としていた頃の事だ。

たまたま得意分野を生かそうと…ある会社の原稿作成や校正、イラストやキャッチコピーを含めたデスクワークの求人に応募していた。

会社名は株式会社リクルート。

「 求人広告の製作 」と言う求人募集に応募した訳なのだが…何故か最初の面接から試験、二次面接へと至る過程で、「 営業 」としてやってみないか?と声をかけて頂き入社に至った。

もちろん通院、治療をしながらの新たな職場。

まずはG8へ何度か出社して、配属部署や諸手続きが必要になる。


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社内用語にはなるが、銀座8丁目にある本社ビルはG8と言う総称で呼ばれていた。

配属先は新宿。直属の上司、係長は大阪出身の若手のホープみたいな方で、あの陸上女子マラソンで脚光を浴びていた有森選手とも交流があったようだ。

そのリクルート入社後、社内で組んだある企画の為のバンド活動。コレが最終的に最も大きな運命の転換期となった。

バンド活動再開を経て…少なくとも音楽、バンド、ギター、楽器、などの仕事に関わる…と言う強い意思が生まれたのだから?

このリクルートバンドが無かったら?

それこそ、こんな仕事はしていなかった…と言う事になる。

入社後、ある若手社員が課を引っ張っていた。大口の大量受注を獲得する正にトップ営業マン。彼に同行して営業のイロハを学んだけれども?それこそ歩くスピードから何から…「 出来る男 」に同行すること自体が?かなりの体力を要する事も学んだ。

歩き方ひとつ、TPOをわきまえたスーツの着こなし…さすがはリクルートのトップ営業マンだ。

年に何回かは日本武道館で、キックオフの表彰式が行われ、全国トップ10には紺ブレザーが与えられる。キックオフの後のパーティ、懇談会は目黒雅叙園。ゲストには誰もが知っている大物ミュージシャンが来たりもする。そんなバブリーな時代に知り合った彼と意気投合した事が、その後の自分の人生に大きな影響を与えてしまうのだから…

運命とは不思議な場所から生まれたりするのだ。

余興とも言える社内旅行のレクリエーションに向けて…自分の部署でオリジナルのテーマ曲を作ろうと言う事になった。

バンド経験者を募ったところ…

自分を含めて挙手した人間の中に彼がいた。

個人情報になるので、名字は控えるが…3人は即時決定した。彼はリードヴォーカル兼サイドギター…もちろんフロントマンだ。リードギタリストが自分。ベーシストは課の中で仲が良かった同年代の人間に決まった。

Vo & G / Shige
Lead G / Kyo
Bass / Mako

最初のミーティング前に、それぞれが過去のバンド活動の音源を持ち寄った。Shige の楽曲には素晴らしい曲が多々あり、オリジナル楽曲制作には欠かせないキーマンになり得る存在だった。

長身だし?ルックスもいい…

彼なら?この曲達があるなら?可能性があるかもしれない…自分はそんな手応えを感じていた。

Makoとも趣味が似ていた。ピンククラウドやCharが好き…って言う共通点。単なるハードロックベーシストにはない自分がこだわって来たフュージョン要素。

Shigeに至ってはボストン、エアロスミスからビートルズまで…60年代をリスペクトしつつ現代風でメロディアスなロック、ポップスと来たので?笑
「 あら?完全に目指すとこ一緒だわ?」が意気投合に繋がった。

新宿御苑前にある某スタジオでの初リハ。とりあえずは適当なドラマーに依頼していたんだけど、初リハなので?彼のオリジナル曲を中心に進める予定だった。

自分は、事前に貰っていた彼のテープからギターパートを耳コピして、プラス自分なりのアレンジを加えて弾き始めた。

彼は凄く喜んでいて、熱っぽく語り始めた。

「 なんか俺の曲をちゃんと理解してくれてるのに…その時のバンドのギタリストに不満だった部分を全て解消してくれてるようなプレイだった。
チューニングしてる時に凄い早弾きが聞こえて来たから?勿体ない!って思ったし…
俺、バンドの為なら会社辞めてもいいと思ってる!」

紺ブレザーをゲットするほどの…トップ営業マンの熱い思いは伝わって来た。

メンバー全員が20代前半…

今の時代とは正反対で?安定している…大企業だから…なんて言う「 守りに入る思考 」よりは「 夢を追う為なら?」と言う血気盛んな若者は多かった。

自分も久々に本気モードが蘇りつつあった…

「 やろう!取り敢えずは企画用の曲書いてくるから?まずは仕事やっつけようよ?俺はShigeのこの曲は世に出る可能性を秘めていると思ってるよ?」

Shigeが会社を辞めてもいい…とまで考えていたパワーバラードのタイトルは…「 話しがしたい 」

後にインディーズで積極的に活動していた時代の自分が、アレンジを施してピアノやシーケンサーによる打ち込みのバッキングをベース音源として、歌詞の一部を書き換えて?
AOR風に仕上げて自主製作販売をしたのが、この曲だ。当時の自主製作盤を持ってる方なら?笑
入ってますよ?カセットやMDで安価で手売りしてた時点でも収録してる筈!笑

タイトルを 「 Talk〜話しがしたい 」には改めたけどね?


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そんなリクルートバンドの活動の為に、ベースのMakoと新宿三丁目にある楽器店のセールに並んだ。自分は1980年代生産のフェンダーUSAストラトを購入した。


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見た目上は画像のストラトと一緒。

購入した時点では新品だったし、リクルート時代で稼ぎも良かったので迷う事なく白いローズ指板のフェンダーUSAストラトキャスターを購入した。

以降、新品のギターを買う時はイシバシ楽器と決めていた。

95年頃にも57ヴィンテージの新品のストラトを、同じく新宿店で購入している…



理由は御茶ノ水ロックサイドにいた…ある店員さんの接客に感銘を受けていたからだ…



最初のグレコは新宿のKeyで買ったけど…楽器屋の兄ちゃんのタメ口、上から目線が当たり前だった時代に…この人だけは違っていた…

自分も後にコンビを組ませて頂きましたが、業界では最も尊敬する方です。

最初のFender…80年代のアメスタは、リクルートバンド後の活動で…後に白いボディーが、打ち上げ中に描き込まれたメッセージを発端にして、隙間ないくらいに色々書き込まれちゃったので…ネックだけ残して、ボディーは随分後になってリフィニッシュしたけど、とっくの昔に手元にはない。


まさか後の人生で?
自分がその店の主力スタッフとして長く勤める事になるとは夢にも思わずに…そして尊敬すべきあの人と同じフロアに立てたこと…も運命だと自分は思っている…



そして、稼ぎの一環としていた…浅草ビューホテルの近くにあった、パブスタイルでのハコバン時代にも活躍してくれたストラトが最初のアメスタストラトでもあった…

そのパブハコバンのメンバーの中で日本人は自分だけだったけど
ね?🤔

ただ…最終的にはリクルートバンドは社内旅行にて「 販売サービス職リクルーティング課のテーマ 」を披露したのみで、終わってしまっている…… 

( インディ時代に…この曲も歌詞を全て書き換えてアレンジもバービーボーイズの「 負けるもんか 」風に大幅にアレンジして、「 Deep Inside 」というタイトルでレコーディングはしたけど…自主制作販売音源に入れた記憶はない。作曲はShige 、理由は自分が書き換えた歌詞がエロ過ぎたから…🤭 )

理由は単純だ。

再び、自分が倒れたからだ。自分もゴールインボーナスを毎度貰えた成績だった故に、3ヵ月毎に上がるノルマ達成の為に、かなり仕事上も無理をしていた。( 夏冬の2回の他にゴールインボーナスは年4回。成績優秀者なら初年度から年収500万も可能だった…)


ある日…吉祥寺の営業先に庶務の女の子を連れて営業に向かった翌日に、脂汗と共に激痛に見舞われ、社内で横になっていた…

痛みは全く引かない… この翌日、自分は又もや飯田橋の「 東京警察病院 」に再入院することになる…

その当時は知る由もなかったが、亡き実母は上京する際に「 ある方の養女 」として、豊橋から東京へ出てきていた…

ある方…とは…警視庁本庁に勤めていて幼少期から「 叱咤激励 」してくれた「 故金井警視正 」であり、再入院時にも来てくれていた…

リクルート退職は…もはや避けられない状況だった…

あの国松長官狙撃事件を担当していたのも金井さんだ…警察病院の斜め前にあった「 鰻屋 」は、お袋と金井警視正と3人で何度も入った…

金井さんの口利きで、後の院長、飯塚内科部長が自分の主治医でしたが…

飯塚先生の判断は「 もう少し無理をしない仕事 」でない限り、現段階では何度でも同じことにはなる…って言う診断だった…

放射線治療の限界もあったのかもしれない…


( 当記事は2018年に別ブログにアップしたものを加筆修正したものです。後編を執筆するにあたり、その別ブログのパスワードその他を忘れてしまった事、その時点で所有していたiphoneを解約していること…などから、本ブログに転載させて頂きました。)