今日はアルバムの記事ではありません。
1962年10月5日、ザ・ビートルズは、Love Me Do / P.S. I Love Youのシングルをリリース。
この日がビートルズの正式デビューの日となっています。
2012年10月5日、ビートルズがデビューしてちょうど50年、半世紀を迎えました。
そこで今回は、先日記事でも上げたジョージ・マーティンの書籍「耳こそはすべて」から、デビュー曲であるLove Me Doの録音風景とリリース時の逸話を紹介します。
なお、引用者は必要に応じて表記変更や文中の()による補足などを行っています。
また、読みやすくするため改行を施しています。
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1962年9月11日、(ビートルズの)初めてのレコーディングを開始するために私たちは集合した。
自分たちの曲に関して彼らは神経質なくらい執着を持っていたから、選曲は彼ら自身に任せることにした。
そして決まったのが、Love Me Do、B面がP.S. I Love Youである。
レコーディングには、技術的な面を含めて、最初から彼ら自身を立ち会わせたかったので、最初のラン・スルーの時、彼らをコントロール・ルームに呼んだ。
録り終えたばかりの音を聴かせた。
「みんな、ちょっと今のを聴いてくれるかい? もし気に入らないことがあったらなんでも言ってくれ。そしたら、またなんとかしよう」
と私が言うと、ジョージ・ハリスンが答えた。
「そうですか、そんなら、あなたのネクタイが気に入らない」
これでみんなが引っくり返って笑った。
まるで学校の先生をからかった生徒を、他の生徒がふざけて突っつくように、他の3人が彼をこづいた。
後から耳に入った話だと、私のいない所でもう一度この話を蒸し返して、みんながジョージに言ったそうだ。
「あの人にああいうことを言っちゃダメだよ。すごく気にするぜ」
しかし私も腹の底からおかしかった。
こういうのが典型的なビートルズ・ユーモアだということを、彼らと付き合ううちに分かってきた。
ところが、そのうちちょっとした問題が持ち上がった。
彼らは前からピート・ベストの代わりに、リンゴ・スターという素晴らしいドラマーをグループに迎えたいと話していたので、私はこの際、彼をスタジオに呼んで、とにかく今我々がやっていることを見せようじゃないか、と提案した。
リンゴも含め彼らは全員張り切って、もう次のレコーディングからすぐ彼が一緒にプレイできるものと思い込んでいた。
だか私は彼らにいった。
「いや、そうはいかないよ。私も1回へこまされたから、そのお返しだ。君たちにはうんといいドラマーをつけてあげる。アンディ・ホワイトといって、優秀なセッション・ドラマーだ。多分リンゴよりうまいんじゃないかな。彼をメンバーにしよう」
リンゴは明らかに焦った。
彼はその時、非常にがっかりして、私が彼をつぶそうとしているんじゃないかと思ったという。
だがそうではなかった。
ただ彼がどんな力を持っているか知らなかったのと、まだ自分自身、危険を冒す心構えがなかっただけのことだった。
結局、お互いに歩み寄って話がついた。
私たちはLove Me Doのヴァージョンを二通り吹き込むことにしたのだ。
片方はアンディがドラムス、リンゴがタンブリンを受け持ち、もう片方でリンゴがドラムスを叩いている。
だがリンゴがタンブリンをやった方のテープはどこかへいってしまって、今も出てこない。
その時は全然気にしていなかったし、今も気にしていないのだが、ビートル・マニアにとっては大問題らしく、「なんてこった! こんな大事な、歴史的な事実をどっかへやっちまうとは!」と喧々囂々の騒ぎだ。
リンゴ・スターが優秀なドラマーで、私たちの要求に充分に応えられることは、その後すぐに私も分かった。
彼は決してテクニカルなドラマーではなかった。
当時はバディ・リッチやジーン・クルーパといったテクニシャンたちの腕が目立っていた時代だったが、それでもリンゴはロック・ドラマーとしてのハードさと、素晴らしく安定したビートを持ち、しかも自分のドラムスからひとつひとつの音楽に適した音を出す術を知っていた。
他の誰のと聴き比べても、これが彼の音だと分かる響きがあって、そのはっきりとした個性が初期のビートルズのレコーディングには欠かせない要素になっていた。
◇
Love Me Doはこうして(1962年)10月5日に発表された。
私は宣伝活動に乗り出した。
その際、EMIはたいした助けにならなかった。
これまでにコメディ・レコードのような変り種ばかり手がけてきたことから、私はだいぶ疑いの眼で見られるようになっていたのである。
それでビートルズという名前のグループを出すと発表した時、編集会議に席を連ねていた全員が吹き出した。
「ジョージの次の手はそれかい?」「偽のスパイク・マリガンか何かかね?」と冷やかし半分のヤジが次々の飛んだ。
私は言った。
「真面目な話なんだ。これは素晴らしいグループだ。これからもいろいろ、いいものをだしてくつもりなんだ」
だが何を言ってもまともに聞いてくれる者はいなかった。
みんな笑いこけるのに忙しくてそれどころではなかったようだ。
そしてEMIの出版会社でさえもが、このレコードを出すのに何ひとつ積極的な協力をしなかったのである。
だが私の決意は固まっていた。
確実にヒットするグループを手中に収めているという自信があった。
まだ最初のレコードでは、そこまで成功するには及ばないだろうと感じながらも。
ブライアン・エプスタイン(ビートルズのマネージャー)が自分の店で一家をあげて猛プッシュした努力のかいもなく、1枚目のシングル盤は(英国の)ヒット・チャートの17位に達しただけだった。
それでも私は彼が電話をかけてきて、この出荷枚数ではとても品切れで販売に間に合わないと言ったのを覚えている。
それは悲しい事実だった。
売り上げのほとんどがリヴァプールのレコード屋に頼っていた。
「いったいEMIはどうなってるんです?」
とブライアンはなじった。
どんなばからしいことが会社内にあるのか、それともまったく何も起こっていないのか、私にはよく分かっている。
だが、南の地方(ロンドンのこと)の人たちは、いくら17位がほんのスタートだと説明しても、確証がつかめないのだ。
ブライアンは不満だった。
レコード会社どころか制作出版会社からも、はかばかしい援助は得られない。
「次のレコードを出す時は、もう彼らに出版権を渡すまい」
とブライアンは言うのだ。
「それもそうだが、とにかくグループにはヒット・ソングを見つけてやることが先決だ」
と私は言った。
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この先は、外部の人間が作曲したHow Do You Do Itを2枚目のシングルとして出すために録音したものの、ビートルズはあくまでもオリジナルに固執して、Please Please Meという曲を持ってきて録音、それが大ヒット、と続いてゆき、漸くビートルズのサクセス・ストーリーが本格的に幕を開けることになります。
How Do You Do ItはANTHOLOGY 1で聴くことができますね。
幾つか補足。
ジョージ・マーティンは当時はクラシックや文中にあるような例えばピーター・セラーズのコメディアルバムなどである程度の成功を収めてはいたけれど、クリフ・リチャードが人気を博したのを受けて、自分でもポップスの大スターを見つけ出して成功させたいという野望を持っていた時期でした。
そんな中で、デッカをはじめ他のレコード会社をことごとく断られていたビートルズと出会い、運命が変わったのです。
この話を読んで、ビートルズは最初から自分たちの信念を曲げようとしない一方、ジョージ・マーティンは聞く耳を持つ寛大さがあり、かつ、マーティンにも音楽の信念があって、ビートルズはうまくそこにはまり込んだ、ということが分かりました。
それ以上に、もはや神話と化しつつあるビートルズも、やっぱり人間くさい人たちだったんだな、ということを感じてほっとするものがあります。
ただし、リンゴが最初は危なかったのは、分かっていることとはいえ冷や冷やしましたが(笑)。
リンゴのドラムスは確かに独特の響きがありますよね。
ドラムスが演奏できなくてよく分からない僕でも、それは分かります。
というか、そういう人間が分かるからこその素晴らしさであり、それが個性なのでしょうね。
それにしても、僕がビートルズを聴き始めたのはデビュー19年目、すぐに20周年で一部ファンの間では盛り上がったのですが、デビューから僕がビートルズを聴き始めた時までよりも、聴き始めてから今までのほうがはるかに長くなってしまったのは、僕も、自分の年を感じますね(笑)。
でも、当時は、ビートルズがあと30年が経ってもまだ聴かれているであろうことは想像できたけど、ここまでの広がりと深さを持って存在し続けるとは、正直、思ってもみなかったことでした。
むしろ、僕が聴き始めた頃より今のほうがポピュラーな存在ですよ、それは強く感じる。
ポピュラーというより、もはや社会の一部になっていますからね。
この記事は昨夜のうちに上げるつもりだったのが、時間切れで1日遅れとなってしまったのは、自分でもかなり悔しい。
でも、それも僕らしいところかな(笑)。
明日は普通にアルバム記事を上げるつもりです。