聖利休~主(あるじ)と奴(しもべ)/31 | ぐい呑み考 by 篤丸

ぐい呑み考 by 篤丸

茶道の世界では、茶碗が茶会全体を象徴するマイクロコスモスとされます。だとすれば、ぐい呑みはナノコスモス。このような視線に耐える酒器と作家を紹介します。

 利休は茶の世界に「ひとつの無限性の関係」を持ち込んだ。かれの茶は「絶対的に他なる領域」にあって、共通のラングによるコミュニケーションを不可能にする。理解できないことを理解させるのがかれの「師」としての務めだった。だから、その忠実な弟子である山上宗二は「平人には無用」といって理解できないことを理解した。いっぽう、「主と奴」のスタティックな関係性を信奉する秀吉には、理解できないことが理解できなかった。ラングのなかで十分充足できたかれのなかには、理解できない教えなどそもそも存在しなかった。死ぬまで「主」であることにこだわり続けたこの天下人に、利休の声なきパロールは届かない。しかし、所詮、それがノーマルである。それをスタイルととらえるのがむしろ常識的な考え方で、より厳密にいえば、利休にとって長次郎の茶碗がスノビズムに対する挑戦だったとすれば、それがスタイルとして流行するという現象は、それが、理解されたものとして、当初の目的をすでに見失っていることを意味している。それどころか、「今焼茶碗」を使う「亭主」たちは、今をときめく天下一の茶頭を気取って、まさに否定されるべきスノビズムを逆に肯定している。だが、そもそも利休の実験は、理解できないことを理解することを目指してたのではないか。だとすれば、赤や黒の茶碗がかっこいいとかシャレているとかいわれて流行の対象になってしまうこと自体が、その趣旨に相反しているのではないか。そこに「無限性の関係」があるのか。それでもなお利休は「絶対的に他なる領域」にいることができるのか。はたして「絶対的差異」は可能なのか。

 

 利休の仕事は、いってみれば、20世紀のアヴァンギャルド芸術が試みた数々の実験を先取りしている。それらは総じて自分が属する表現領域の常識に疑問を投げかけることから始まった。詩は本当に美しい言葉の芸術であるべきなのか、絵画は必ず自然の模写でなければならないのか、既存の形式に従って作曲された作品だけが音楽たり得るのか。たとえば、詩におけるダダやシュールレアリスム、絵画におけるピカソやカンディンスキー、音楽におけるシェーンベルクやストラビンスキー、それぞれの試みはまさに、利休が既存の茶の湯という制度に反旗を翻したように、自らが拠って立つ表現ジャンルのコード(規範、法典)を否定ないしは逸脱することに重きがおかれた。だからこそ、それらの作品は、容易に理解できないという理由から、いつもスキャンダラスな受容のされ方をし、それぞれの分野で「崇高」を実現した。しかし、厳密にいえば、受け手はそれらの表現を完全に理解できないわけではない。ダダの意味不明な言葉たちでさえ単語のディノテーション(文字どおりの意味)や音の響きは理解できるし、「アビニヨンの娘たち」や「コンポジション」からもまた色彩や形象をとおして何かを感じることができるし、「ピエロ」や「祭典」にしても平均律に基づいて作曲されていることに変わりはない。少なくとも、それらのジャンルとして最低限の形式を備えているからこそ、賛否は別として受容されるし、それがなければ、受け手は鑑賞者であることをやめるだろう。つまり、ヴァレリーが「文学」に対してかぎとった「文学書を読むための諸条件」がなければ、芸術表現というコミュニケーションそれ自体が成立しない。

 

 結局、理解できないことを理解するにしても、表現がまったく理解不能であってはならないから、表現であることが理解できる最低限の「諸条件」は必要である。だとすれば、表現が表現であるためには、多かれ少なかれ理解できる部分がなければならないことになる。このことは、いくら絶対的差異を創造しようとしても、ディノテーションや色彩、平均律など、これを伝達させるための「諸条件」を介在させねばならないのだから、それは、所詮、相対的にならざるを得ないことを示している。つまり、表現には理解できる部分と理解できない部分がある。それらは、けっして1対0ではなく、どちらかに自然数の入った比率を構成する。そこで前者が多くを占めればわかりやすい表現に、後者の要素が多ければわかりにくい表現になる。そのいっぽうで、かりに理解できる部分がまったくなければ、すなわち0ということであれば、それはもはや表現たり得ない。ならば、表現が、表現として成立している以上、絶対的差異の創造であることは不可能で、どんなにそれを主張しても、どんなに「崇高」にみえようとも、それは所詮相対的差異の域を出ない。

 

    これに対して、デュシャンがいるではないか、ケージの仕事をどう考えるのか、との反論があるかもしれない。かれらの試みは、少なくとも、表現として保つべき最後の「諸条件」さえも放棄している。「泉」は、色彩や形象、さらにはジャンルとしての形式さえ否定しているし、「4分33秒」は、平均律はもちろん、表現素材として楽器の音までオミットしている。これでは表現として成立しないではないか。かれらの実験は、1対0の芸術、つまり絶対的差異の創造に等しく、まさに「崇高」の域に達している、と。確かにそうかもしれない。だが、かりに、かれらの作品が美術の世界でも音楽の世界でもまったく無名の作者によるものだったとすれば、どうだったか。ブランショは、シュールレアリスムによって、それまで詩人のものとされていた詩を、誰もが書けるようになったと指摘した。たとえば、絵画や音楽のイロハをまったく知らない素人がなした作品だったら、そしてブランショがいうようにげんにそれは可能なのだから、受け手は、横たえた便器にサインをしただけのオブジェを、あるいはピアノの前に座って何も弾かずに座っているだけのパフォーマンスを、はたして表現とみなしていただろうか。実際には、それらの作者が、「階段を降りる裸体no.2」という実績をもった画家で、「プリペイド・ピアノのためのソナタとインターリュード」で知られた作曲家だったからこそ、表現として受け入れられただけではないのか。そんな背景もなく、無名の誰かの手によるにすぎなかったとすれば、いずれの作品も芸術というコミュニケーション行為の対象になり得ていなかったのではないか。だとすれば、それらがひとつの作品として受容されたこと自体、究極のスノビズムというべきではないのか。絶対的差異も「崇高」も、砂上の楼閣のような虚構のうえにあるといわねばならない。(続く)

 

柳下季器「今焼黒」

 

    今年生誕500年を迎えた利休について私見を述べるにあたって、13人の作家の皆さんに利休をイメージさせる作品で御協力いただきました。連載はひと月にわたりますが、紹介させて頂く作品は「ぐい呑み選by篤丸」にアップしています(30日迄)。今に息づく利休の造形をお楽しみ頂ければ幸いです。