聖利休~主(あるじ)と奴(しもべ)/25 | ぐい呑み考 by 篤丸

ぐい呑み考 by 篤丸

茶道の世界では、茶碗が茶会全体を象徴するマイクロコスモスとされます。だとすれば、ぐい呑みはナノコスモス。このような視線に耐える酒器と作家を紹介します。

 政治的な交渉事でベストパートナーであった秀吉と利休だが、ふたりともに人一倍の野心家であるからには、互いに負けず嫌いであったことはゆうに想像できる。かれらが野望を抱いて出世街道を歩んでいるあいだは、「主と奴」のスタティックな関係にかなりこだわっていたにちがいないから、「承認」をめぐる闘いにはとくに敏感だったことが推定される。その矛先は通常はかれら以外のところに向けられ、それがために、対外的にはパートナーとして機能したが、闘いの相手はそれだけではなく、現実にはより身近な存在であるお互い同士をそれとして認めていたはず。秀吉が利休に対抗心を燃やすのはいかにも理解しやすいが、実は利休もまた秀吉には単に関白とその茶頭という関係には収まらない複雑な思いを抱いていたことが、かれの書簡から伺われる。先ほど引用した摂津平野の攻略の際の手紙で、利休が秀吉のことを呼び捨てにしていたことは先に指摘したところだが、このとき、秀吉は、まだ信長の大勢いる家臣のうちのひとりにすぎず、しかもようやく長浜の城主になったばかりのまだ下っ端にすぎなかった。信長の懐深く入り込んでいる宗久ユニットからすれば、かれは目下の存在でしかなかった。この調子はしばらく続き、信長が亡くなって秀吉が明智光秀相手の弔い合戦を制した後も(手紙における)呼び捨ては変わらない。驚くことに、これは、織田家の重臣柴田勝家を倒した賤ケ岳の戦いの後も、織田信雄・徳川家康連合軍との小牧長久手の戦いの後にも継続し、秀吉が内大臣や関白に就任してようやく「内府様」や「関白様」と尊称を用いるようになる。

 

 平野の町年寄末吉勘兵衛への手紙が天正初年(1572)で、本能寺の変(天正10年(1582))を経て、秀吉の関白任官が天正13年(1585)だから、そこからは、秀吉が信長の実質的な後継者と世が認めはじめてもなお呼び捨てにこだわった利休の気持ちが伝わってくる。周りがこぞって「秀吉公」と呼びはじめているのに、頑なに以前の呼び方を変えないのは、利休が秀吉を信長の後継者と素直に認めたくない、というより秀吉より自分のほうが偉いという気持ちの表れとも受けとることができる。その心の揺れが垣間見える手紙が一通残されている。「御折紙拝領。昨日従秀吉公御折紙到来候。竹鼻城、去十日に相渡候。城中衆えは一柳一介、牧村長兵贈候て、長嶋帰城候。直に秀吉ハ伊州へ御越被申候。所伝兵別紙にて可申遣候へ共、右旨、御言伝にて申入候」(太字筆者)。天正12(1584)の小牧長久手の戦いの最中の手紙で誰宛てか不明だが、美濃から伊勢へと転戦する秀吉の動きを報告する内容が綴られている。その中身はともかく、ここで利休は、二度言及される秀吉のことをかたや「公」付けの尊称で、かたや呼び捨てにしている。一通の手紙に尊称と呼び捨てが同時に用いられているのは、秀吉が自分より上の立場になるのを認めねばならないのに気持ちがついていかない心の動揺のせいと読み取ることができる。利休は秀吉の成功を「承認」したくないのだ。この手紙の三か月後の書状でもまだ呼び捨てにしているので、利休の負けず嫌いもよほど往生際が悪い。確かに、成り上がりの秀吉は周りの多くの人びとから内心その出世を快く思われなかったきらいはあるものの、ベストパートナーの利休の呼び捨ては、それらの単なる悪意やねたみとはまた別の感情と解釈すべきだ。

 

 いっぽう、秀吉はどうだったか。おそらく、信長の弔合戦に勝利してその後継者としての地保を固めるまでは、利休に対していつかは自分が上になってやるとの強い思いを抱いていたはず。とくに政治的な立場からすれば、利休は戦場での苦労も知らない一介の町人のくせに自分のことを呼び捨て扱いしてと、一物も二物ももっていたと想像するのは難しくない。「人たらし」と呼ばれるほどの人物だから、これを表面に出すような真似はしなかっただろうが、自分より上の者たちには例外なく抱いただろうこの手の感情は、やはり、立身出世を目指す強い原動力となっていたにちがいない。それが、本能寺の変をきっかけに天下人への階梯が現実にみえてくると、一変する。利休の呼び捨てが尊称に変わったように、これまで自分のことを下にみていた周りが急にチヤホヤしはじめる。これまで内に秘めてみせなかった強い劣等感はこれによって解消されただろう。利休に対してもそうだったはずで、それまでの対抗意識よりも交渉事のパートナーとして、あるいは茶頭としてのかれの力量をそれまで以上に重視するようになっただろう。というのも、利休との「承認」レースは、かれが尊称を用いはじめた時点で秀吉に軍配があがっていたから、ふたりのあいだには、すでに「主と奴」の関係が確立していた。利休は秀吉の一配下にすぎず、そのとき、「主」が「奴」に期待するのは自分のために提供される「労働」にほかならないからだ。秀吉にとって、利休は、もはや追いつき追い越すべき対象でも、ライバルでもない。天下人を目指すかれが利休に求めるのは、配下のコマとしてもてる能力を最大限に発揮してもらうことに尽きる。

 

    ところが、唯一茶の湯だけはその対象外だった。もちろん、利休が秀吉の茶頭として受動的に「労働」するときには、ふたりは「主と奴」の関係にある。秀吉の意向を受けて茶席をコーディネートしたり、お点前するときの利休は秀吉の「奴」であることにかわりない。だが、利休が自席で茶を振る舞うとき、かれは「亭主」として能動的な「労働」を実践できる。そこには、何事にも縛られない利休がいて、自分の思うままの茶を表現する。たとえ天下人の秀吉でも、いったん「客」としてそこに座ったら、それを「承認」しないわけにはいかない。なぜなら、秀吉にとって利休は茶の湯の「師」なのだから。実際にかれらがどれほどの師弟関係にあったかどうかは、『長闇堂記』の「宗易は秀吉公の御師」という間接的記述があるのみで、確たる資料がないからわからない。秀吉関係の茶会記を調べると、津田宗及に師事していたとの推測を導く記述もある。ただ、利休が天下一の茶頭として秀吉に仕えていたという事実は変わらないので、秀吉が利休の茶を「承認」していたことは間違いない。力ですべてを支配し天下を取った秀吉だが、「師」である利休の茶だけは支配できなかった。このことに負けず嫌いのかれが刺激されたのは十分考えられるし、実際に、茶頭としての利休の仕事を十分尊重しながらも、ときに茶の湯をめぐる「師」との関係性を転倒させようとする試みをしてみせる。殊茶の湯に関しては、秀吉はあいかわらず利休をライバル視している。(続く)


豊増一雄「染付」


    今年生誕500年を迎えた利休について私見を述べるにあたって、13人の作家の皆さんに利休をイメージさせる作品で御協力いただきました。連載はひと月にわたりますが、紹介させて頂いた作品は「ぐい呑み選by篤丸」にて、11月19日からアップいたします。今に息づく利休の造形をお楽しみ頂ければ幸いです。