聖利休~主(あるじ)と奴(しもべ)/14 | ぐい呑み考 by 篤丸

ぐい呑み考 by 篤丸

茶道の世界では、茶碗が茶会全体を象徴するマイクロコスモスとされます。だとすれば、ぐい呑みはナノコスモス。このような視線に耐える酒器と作家を紹介します。

    宗久を中心とするこのユニットは、信長に経済的、軍事的な支援をするとともに、政治の手段としての茶の湯指南や名物の供給などを通じて文化的な貢献をすることで、政権のなかでかなり大きな権力を握っていった。確かに、経済、軍事、文化の各方面において不可欠の存在ともなれば、政権はこれに大いに頼ることになろうし、その分その代償として何らかのうまみを用意しなければならない。命じられて奉仕するにしても、そのほうが身が入るし、仕事もより充実するだろう。宗久が堺一帯の代官になったり、淀川や生野銀山の利権を得たのは、その何よりの証である。再び桑田氏の労作を頼ると、かれらがどれほどの地位にあったかを示す貴重な手紙が残されている。以下の引用は、天正(1572~)の初め頃、利休が摂津の平野の町年寄、末吉勘兵衛に宛てて書いた手紙である。


    「筑州へ藤四郎殿御礼被申、大慶に候。一、住吉之事、様子直に秀吉日を承、藤へ申渡候。一、貴所御存分をば透と可申候。心得申候。大かたの事、藤へ申候。一、我等かたへ又大樽二か請取申候。一、秀吉へ御音信おひたゝしき躰、殊に酒一段並干飯著由候。藤仕合能候て、我等迄本望候。一、貴所へ上さま両度まて申候。能知候。恐々謹言。(筑州(羽柴筑前守秀吉)に対して藤四郎殿がお礼を申されたとのこと、大慶に存じます。住吉の事に関しては、秀吉が日を改めて、直に藤四郎殿へ申し渡すことになりましょう。そこで、あなたのお考えをば、はっきりと申されるがよい。こちらも、万事心得ています。大抵の事は、藤四郎殿へ申しあげましょう。私の方へ、また大樽が二荷届きました。確かにちょうだいいたしました。秀吉へあなたから再三おたよりがありますとのこと、ことに酒も一段とおびただしく、また、干飯もお届けなさったよし、まず、結構なことです。藤四郎殿の御おぼえが上々で、私まですっかり満足しています。あなたに対しては、上様(信長)も両度までおことづてがあったはず、そのことは、私もよくぞんじています。)」


    平野は、堺と同様に、町人の自治都市だったが、信長の近畿侵攻によって堺と同じ運命を辿ることになった。この手紙には、信長の命を受けて、秀吉が平野攻略に動いている最中のやりとりの一端が記されていて、そんななかで交渉手段としての賄賂の重要性を示唆する内容がしたためられているが、そこで判然とするのは、その交渉の最前線に利休自身が関わっていることである。桑田氏は「秀吉の内意をうけて、直接、町年寄の末吉一族と折衝したのが、堺の納屋衆としての利休であった」としている。天正の初めといえば、堺が信長の手に落ちて四年後で、そのときすでに利休は政権の中枢にいて、中世以来、ほんの数年前まで同胞であったはずの商業都市の懐柔に敵対勢力の側から働きかけている。当時の秀吉は、金ヶ崎の戦いや姉川の戦いで武功をあげたのが認められて、ついに一国の主として長浜城の城主に任じられ、その後まもなく筑前守に任官されたばかりの頃。おそらく、織田家臣団のなかで最も勢いのある出世頭のひとりだった。その秀吉が命じられた重要な任務に当たるというのは、利休がいかに政権内で信用を得、期待をされていたかわかろうというものだ。


    しかも、この文面で注目すべきは、利休が秀吉のことを「筑州」とか「秀吉」と呼び捨てにしている点だ。相手の勘兵衛が自分と同じ町人で、同胞意識をくすぐるために、敢えて敵方を呼び捨てにしているととれなくもない。交渉相手にとって利休もまた敵方の人間だが、元来は同じ自治都市に育った町人だから、信長の直臣である秀吉を呼び捨てにして仲間意識を醸成するというのはしたたかな戦略だといっていい。ただ、その他の手紙でも、秀吉が天下人になるまでは秀吉に対してはこの調子が続くことからすると、その戦略の分を差し引いても、利休は明らかに秀吉を自分より下位にみている。これには、もうひとつ傍証がある。この手紙より少し後に書かれたとされる秀吉から利休に宛てた手紙で、秀吉は宛書きを「宗易公」と書いているのだ。「公」が尊称であるのはいうまでもない。先輩の柴田勝家や丹羽長秀との関係を円滑にするために、姓を「木下」から「羽柴」に変えたほど「人たらし」といわれた秀吉のことだから、へりくだった対人関係は得意だったにちがいない。それでも、誰彼となく低姿勢だったとは考えにくいし、手紙でわざわざ目下の人間に「公」を使えば逆に嫌みになる。茶の湯の指南を受けていたからとも考えられるが、他の弟子たちが利休宛の手紙で「公」を使った類例はないので、やはりこのケースは特別と判断していい。このふたりのあいだには、支配勢力の家臣と支配された町の住人というだけでは説明しきれない関係がすでに確立している。


    利休と秀吉のこの関係から透けてみえるように、宗久を中心とした三人のユニットは、信長政権のなかでかなり高い地位を占めるにいたった。たとえてみれば、将軍の側に仕える御伽衆や側用人、あるいは今日でいえば大企業の秘書室長のような立場だったのではないか。地位や階級は低くても、トップに最も近いところにいる優位性から、本来目上であるはずの家臣や重役よりも権力を握るというケースは、歴史上ままある。後に利休が秀吉の下で政治的なフィクサーになっていくのも、政権内での正式な立場が明確でないままだったことを踏まえると、同じ立ち位置にあったと考えることができる。それもこれも、トップの御威光があってはじめて可能となる。かれらは、信長の「主」としての威光を、単に堺という町においてだけではなく、織田家の家臣団にも利用した。かりそめの「主」は、秀吉たち信長の配下にある者たちをも半ば「奴」のようにすることができた。だとすれば、この現実は理論的にいかにもおかしい。ヘーゲルは自己と他者が命がけの闘争を経て「主」と「奴」になるといった。利休は、堺が信長の傘下に到った時点から「奴」のひとりとなった。自己の生命と生活を守るという動物的な欲求のために、命をかけることなく相手に服従を誓った敗者である。かたや、たとえば秀吉は、他の多くの家臣もそうだったように、幾度もの戦を勝ち抜いて一国一城の主ともなり得た、文字どおり命がけの闘争を経て、人間としての尊厳を保つ「主」となった勝者である。両者ともに、その上位に信長という真の「主」がいるという意味では同じといえなくはないものの、その過程で、いっぽうは戦で命をかけ、いっぽうは我が身かわいさに初めから服従したとなれば、その優劣は明らか。それにもかかわらず、現実には、「奴」である利休が「主」である秀吉の上位にあり、堺での敗者にすぎない宗久ユニットが常勝軍団である織田家臣団以上の権力を握っている。これはいったいどうしたことか。(続く)


柳下季器「今焼黒」

    今年生誕500年を迎えた利休について私見を述べるにあたって、13人の作家の皆さんに利休をイメージさせる作品で御協力いただきました。連載はひと月にわたりますが、紹介させて頂いた作品は「ぐい呑み選by篤丸」にて、11月19日からアップいたします。今に息づく利休の造形をお楽しみ頂ければ幸いです。