聖利休~主(あるじ)と奴(しもべ)/10 | ぐい呑み考 by 篤丸

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茶道の世界では、茶碗が茶会全体を象徴するマイクロコスモスとされます。だとすれば、ぐい呑みはナノコスモス。このような視線に耐える酒器と作家を紹介します。

下剋上と「主と奴」~再びヘーゲルとともに

 それにしても、任意の定点としての天平8年(1580)、利休にいったい何が起こったのか。冒頭で述べたように、残された伝記的記述から想像するかぎり、利休は、およそ聖人とは程遠い生涯を送ってきた。堺の町人として生まれ、納屋衆として商才をみがきながらそこで中心的な役割を担う会合衆のひとりになる。そして、堺が信長と対立の危機を迎えたとき、今井宗久や津田宗及とともに交渉にあたってその和解に貢献し、信長の茶頭に取り立てられる。信長政権下では宗久や宗及とともにだったが、秀吉政権に移行すると他のふたりを押しのけて天下一の茶頭にのぼりつめたうえに、秀吉の最側近として重用される。これだけの来歴を知るだけでも、利休が上昇志向の強い下剋上の申し子のような人物だったことが伺われる。このことは、後につくられた聖人のイメージがあまりにも強いのでともするとかき消されがちだが、一介の町人から天下を動かすまでになったこの人物は、実は、ずっと野心を隠さなかった秀吉に匹敵するほどの立身出世を果たしている。たとえそう願っても現実にかなうはずはないので、実際には、強運に加えて、かなり強い出世欲とそれ相応の才覚を備えていたのだろう。茶人としても、茶の湯が盛んだった堺に属していたおかげで環境に恵まれ、「作法」としての相対的差異に遊ぶ茶の湯だったとはいえ、茶の湯名人という、しかも天下一ともいわれる名声をも得ていた。秀吉の側近であると同時に茶の湯名人、そしておそらく政商としてかなりの財も蓄えていたことだろう。これ以上望みようのないほど、俗なる利休の人生は成功していた。

 

 それにもかかわらず、すでに老境の入り口に立つ利休は地殻変動を起こす。それは、「自意識過剰」の青年が鼻っ柱を折られて直面する青春の挫折とは性質が違う。なにしろ、多くの成功と挫折を経験として積み重ねて、すでに確固たる社会的地位と名声を得た人物が起こすのである。それまでの安定した地盤を揺るがすほどの激震があったにちがいない。あるいは、こう考えるほうが適切かもしれない。世俗のひと利休は、茶人として、商売人として、さらに政治家として頂点を極めた。それぞれの分野で頭を取るだけでもよほどの努力と才能と運がなければなし得ないのに、一介の町人からそこまでのしあがることができたのだから、それは誰にもまねのできない稀なケースだったといっていい。その意味では、その頂点からしかみえない景色、つまり成功者利休にしかみえない景色があったにちがいない。その高みにあるからこそ、震源はより深くなり、震度もより大きくなった。再三繰り返しているように、この地殻変動がヴァレリーのそれように一夜で完結したかどうかはわからない。それまで生きてきた利休の人生の重みを考えれば、もしかしたら、それは、時間をかけてじわじわと発生したのかもしれない。いずれにしろ、確かなのは、「ハタノソリタル茶碗」の使用が物語るように、それが起こる前と起こった後で劇的な変化があったという事実である。この特異な存在にとっての「ジェノヴァの夜」とはいったい何だったのか。その内なる「怪物」はどのようにして生まれたのか。

 

 下剋上というイデオロギーが支配する戦国の世では、武士(もののふ)たちが戦(いくさ)という命がけの闘争によって自らの富と名声を獲得する。領土を守るのも、他国を侵略するのも、領民を支配するのも、経済活動を保証するのも、裁判を取り仕切るのも、いずれも武力の保証を得てこそ可能だった。命を惜しまずに闘争に勝った者が支配者となる。したがって、世の中を支配するのは命がけで戦に向かった武士だったし、そのなかで最も強力な者だけが天下を取ることができた。利休が生きたのはまさにそのような時代だった。だから、町人とて例外ではない。武力が幅を効かすのは力が均衡していないからにほかならず、ひとつの大きな力が天下を支配して安定を保証できないかぎり、どんな身分の者であれ絶えず命の危険にさらされる。とりわけ、利休が地盤とした堺は、独立した自治都市としていかなる大名の支配からも免れていたのでなおさらだった。明や南蛮との貿易で得た莫大な富を蓄積した堺は、それを巧みに用いて独立を保っていたが、これを裏返せば、それを狙う勢力がいつ現れるかわからないということで、武力による攻撃でそれを奪われる可能性はつねにあった。大名の庇護を受けた町人は命がけで商売をする必要はない。服従を誓う代わりに安全は保障されるからだ。これに対して、堺衆は主に町人の集まりにすぎなかったが、自治を維持するためにつねに命がけでなければならなかった。自治都市であるからこそ、かれらは町人でありながら町人以上の緊張感をもっていなければならなかった。そして、それがあったからこそ、堺は信長の侵攻計画をうまく切り抜け、その後も一定の自治を守ることができたし、のみならず、宗久、宗及、利休にいたっては、天下人の政権の中枢に入り込み、これに内側から影響を与えるまでになる。そうしてみると、利休の甲冑が今に伝わるのもけっして偶然ではない。かれらはまさに命がけの闘争をかいくぐってきた。

 

 先に引用した『精神現象学』の著者、ヘーゲルは利休よりも150年程後の生まれだが、当時のドイツは、300以上の領邦(小国)が分立する不安定な状態で、そこにナポレオンが侵攻し、紆余曲折を経た後、やがてドイツ帝国へと統一されていく過渡期にあった。力の不均衡が社会の安定を阻むにもかかわらず、力をもつ者が幅を利かせる、かれもまた利休と同じ激動の時代を生きた。日本の戦国時代とそのダイナミックな時代観を共有しているからか、かれは、人間の自己意識が形成される契機として、自己と他者との闘争があると説いた。しかも、それは命がけでなければならない。「二つの自己意識の関係は、生と死を賭ける戦いによって、自分自身と互いとの真を確かめるというふうに規定されている。つまり、両方は戦いにおもむかねばならない。なぜならば、ともに、自分だけであるという自己自身の確信を、他者においてまた自分たち自身において、真理に高めねばならないからである。そこで自由を保証してもらうためには、生命を賭けねばならない」(『精神現象学習』)。自己意識は単独であるだけでは何者でもない。他者があってこそ自己は自己として区別されるのであって、もしそうでなければ、動物に自己意識がないように、ただ本能のままに生存のための欲求を満たすだけの感情的存在のままにとどまる。ヘーゲルのいう「戦い」は、だから、単なる戦争ではない。戦で相手を殺してしまえば、自己意識の存在と自由を保証してくれる他者を失うわけだから、その確信をもたらすはずの土台が壊れてしまう。殺し合いは、感情的存在のままにある動物の領域を出ない。動物とは違い、自己意識をもつべき人間にはそれにふさわしい「戦い」があって、ヘーゲルは、そこに「承認」という概念を導入する。自己意識が独立した自由な存在になるためには、他者を殺してその存在を否定するのではなく、生きたままの他者に自己を「承認」させなければならない。自己が自己として存在し自由であることを他者に「承認」させることこそが、ヘーゲルのいう「戦い」にほかならない。(続く)


深見文紀「黒漫画」

    今年生誕500年を迎えた利休について私見を述べるにあたって、13人の作家の皆さんに利休をイメージさせる作品で御協力いただきました。連載はひと月にわたりますが、紹介させて頂いた作品は「ぐい呑み選by篤丸」にて、11月19日からアップいたします。今に息づく利休の造形をお楽しみ頂ければ幸いです。