聖利休~主(あるじ)と奴(しもべ)/7 | ぐい呑み考 by 篤丸

ぐい呑み考 by 篤丸

茶道の世界では、茶碗が茶会全体を象徴するマイクロコスモスとされます。だとすれば、ぐい呑みはナノコスモス。このような視線に耐える酒器と作家を紹介します。

    これに対して、茶の湯に「崇高」を求める利休はわかりづらく、むしろ晦渋でさえあるし、それこそがかれのねらいでもある。「作意」で少し驚かせるどころではない。かれの意図は、強い違和感を刺激したり、腰を抜かすような驚愕を誘ったり、忘我の境地に誘ったりすることにある。常識では理解できないパフォーマンスで茶席を驚愕させること、決まり事を実行できないような環境を設定すること、つまり答えのない問いを発すること。常識的な侘び茶人である宗二は、この晦渋さをよく理解していたからこそ、利休のやり方が「平人には無用也」と繰り返した。境界の向こうにいる利休は、境界のこちら側にいるひとびとからみえにくい。境界の向こうとこちら、つまり彼岸と此岸の対立は、そのまま聖と俗のそれへとスライドする。というのも、わかりやすいものはいつも境界の此岸にある。同じコードを共有する者同士のコミュニケーションなら、伝達するのも、理解するのも、想像するのも容易である。反対に、聖性は簡単明瞭な領域には発生しない。それは、見えないもの、聞こえないもの、触れないもの、つまりは伝達、理解、想像することの困難なものが帯びる属性である。ヘーゲルの「絶対的実在」とは神のことだったが、これは人間の理解を超越した未知なる存在である。逆にいえば、人間が容易に理解できる存在は神ではあり得ない。人智を越えた未知なる存在だからこそ、それは神秘的に映る。晩年の利休の茶は、かれが聖性を帯びるに十分晦渋だった。

 

    これまで述べてきたように、利休は、その生涯のほとんどを俗なる利休として、あるいは凡庸な茶人として、つまるところわかりやすい利休として過ごした。だが、晩年のかれはわかりにくくなった。「崇高」を志向するがゆえの晦渋さが周囲の理解を近づけなくなった。もちろん、そのときにでも俗人であることをやめたわけではない。 秀吉の逆鱗に触れるまでは政権の重要なブレーンであったことに変わりないし、茶道具の鑑定や転売で儲けたり、自ら考案した新しい道具で盛んに商売していたのもまた同じ利休である。ただ、宗二の再三の証言からわかるように、茶の湯に携わっているときには彼岸のひととなった。そして、茶の湯は政治や商売の有力な手段ともなっていたから、その晦渋さが日常の社会生活に少なからず影響を及ぼしたと考えるのが自然だろう。こうして、周りから文字通りの理解者が少なくなっていたことも、あるいは賜死の外堀りを埋められる要因のひとつになったのかもしれない。いずれにしろ、そのような状況で利休は死んだ。先にも述べたように、イエス・キリストと同じように「受難」して「復活」を遂げるわけだが、その晦渋さゆえに、残された人びとから発せられる「表象」が、より深くより豊かにいっそう多岐にわたるようになっていった。というのも、明快さは単純な「表象」しか生まないからだ。宗二や織部にはない、敬愛する師である珠光にさえない聖性を利休が獲得した理由はここにある。

 

俗人利休の「ジェノヴァの夜」~ヴァレリーと『テスト氏』

 天正8年(1580)、利休のなかで何かが変わった。その結果、凡庸な利休が覚醒した利休へ、ギラギラした利休が「冬木」のような利休へ、わかりやすい利休が晦渋な利休へと生成する。もちろん、白が黒になるように、その前後にはっきりした線引きができるわけではない。現在から利休をふりかえるとき、「茶聖」としてのイメージが前面にあって、その向こうに世俗的なイメージが透けてみえるように、両者は、明確に区分けされる類いのものではなく、生身の利休のなかに共存して、それぞれが時や場所にふさわしい現れ方をしただろう。ただ、少なくとも、ある時点を境に、一面的で単純な利休がそのように複雑な利休になった。何か地殻変動のようなものが起こった。天正8年という年号が任意の定点であることは断っておかねばならない。先にも述べたように、これは、利休の茶会記に「ハタノソリタル茶碗」が登場したことを根拠として導かれた年号である。もっと他に情報があれば、地殻変動の正確なタイミングを特定できるかもしれないが、ないものねだりをしていてもしかたないので、ここでは、少ない情報から導かれる推定を根拠とした。敢えて「任意の定点」とするのはそのためだ。ただし、任意とはいえ、それは、それまでとは異質な「ハタノソリタル茶碗」を使用した天正8年を下ることはないから、少なくとも、その時点ではすでに地殻変動は始まっていたとみて間違いない。そして、利休というこの特異な存在をひとつの精神の動きとしてとらえようとすれば、この地殻変動の原因を究明するのが、かれの茶の湯のスタイルの斬新性について論うよりも、あるいは、その悲劇的な最期の理由や背景を推し測るよりもよほど近道を行くことになるだろう。なぜなら、もしそれが明らかになれば、当然、それは、利休の茶のスタイルとその変遷を俯瞰することにもなるし、諸説あってやかましい賜死の解明にもつながることになるだろうから。

 

    もっともありがちな主張はといえば、それを「守破離」という修行の心得に帰す考え方である。芸道を志すのならば、まず師の教えを徹底して守り、それが身についたら今度はそれを敢えて破る、そして、最後にその教えから離れて独自のスタイルを確立するという意味をもつ。道とつく芸の習得の際に広く謳われる心得で、『利休道歌』にも「規矩(きく)作法  守り尽くして破るとも  離るるとても道を忘るな」とある。これを利休自身に当てはめると、若いときから珠光のスタイルを徹底して守り、やがてそれを破り、最後にそれから離れて独自の境地にたどり着いた、との説明が可能である。『利休道歌』にあるということは、現実に茶道の世界ではそう教えられてきたし、それは今も変わらない。晩年の利休はまさに「離」の境地にあるのだ、と。だが、これだけでは何も説明しないに等しい。問題はなぜ地殻変動が起こったかである。なぜ珠光の形式的な踏襲ではなく、その核心ともいえる毒を敢えて飲む覚悟ができたのか。一心に修行を積んで作法を身につけたらそれができるというのであれば、何も利休だけが特別な存在になることはなかったろうし、他にも「茶聖」がたくさん輩出されることにもなったろう。それに、道歌の最終節からもわかるように、たとえ離れても本道を忘れてはいけないというのは、ここでの破るや離れるが、結局相対的差違の範囲を出ず、最終的には守るべき教えに通ずる「道」の正統性の再確認にすぎないことを、奇しくも証明している。利休は「道」を外れたのであって、だからこそ、それは地殻変動なのだ。(続く)


杉本貞光「信楽」

    今年生誕500年を迎えた利休について私見を述べるにあたって、13人の作家の皆さんに利休をイメージさせる作品で御協力いただきました。連載はひと月にわたりますが、紹介させて頂いた作品は「ぐい呑み選by篤丸」にて、11月19日からアップいたします。今に息づく利休の造形をお楽しみ頂ければ幸いです。