聖利休~主(あるじ)と奴(しもべ)/5 | ぐい呑み考 by 篤丸

ぐい呑み考 by 篤丸

茶道の世界では、茶碗が茶会全体を象徴するマイクロコスモスとされます。だとすれば、ぐい呑みはナノコスモス。このような視線に耐える酒器と作家を紹介します。

    利休はずっと珠光の茶の湯を手本にしてきた。「珠光茶碗」や「圜悟の墨蹟」へのこだわり、茶室の草庵化の促進には、侘び茶の祖とされるこの存在への利休の強い思慕の情が伺われる。俗なる利休は、それでも、この心の師の茶の湯に胚胎する毒のようなものに気づくことなく、そのスタイルを踏襲することこそが侘び茶の実践だと思っていた。珠光が好んだ道具を使って、珠光と同じやり方で侘びの茶を点てる。それだけで十分だし、その域に達するだけでも並大抵のことではない。生を受けて六十年間、凡庸な利休はそのことで精一杯だったはずだし、それで満足してもいただろう。それが、晩年になって、突然といっていいほどに豹変する。珠光の茶の湯は、実は、侘びとか寂びという言葉でイメージされるほど静謐でも穏やかでもない。見かけ上のそれとは別の次元で、皆が当たり前だと思っていることをひっくり返すほどスキャンダラスな実験なのだ。すでに茶席で定着している「珠光茶碗」や「圜悟の墨蹟」を使っていい気になっている場合ではない。珠光がこれらを初めて用いたとき、既存の価値観に対してどれほど挑戦的だったか。尊敬する師の本当の意思を継承しようとするならば、珠光のではなく自分自身の「珠光茶碗」や「圜悟の墨蹟」を創造しなければならない。なぜなら、侘び茶の実践とは、境界の手前で他を真似ることではなく、他人の想い及ばないようなその境界の向こうに行くこと、まさに越境することをその本質とするのだから。

 

    それに覚醒して以降の利休は凡庸であることをやめる。珠光のスタイルを真似るのではなく、既存のルールに捉われることなく境界の向こうへ冒険に出発すること、それこそが崇拝する師が自らの茶の湯に込めた真のメッセージだった。以降、利休の専らの関心事は自分の茶にいかようにして「崇高」を持ち込むかだった。その成果が、すなわち、長次郎の茶碗であり、一畳半の茶室であり、竹花入であった。これらの実験は、利休にとっての「珠光茶碗」であり、四畳半の茶室であり、備前物信楽物にほかならなかった。常識的な感性では許容できないのが「崇高」なのだから、宗二のいう「平人」たちがそもそも理解できるはずがない。それらのいかにもスキャンダラスなパフォーマンスを目の当たりにして、弟子の宗二でさえも「山を谷、西を東と茶湯の法度を破り、物を自由にす。」と表現せざるを得なかった。宗二は別の個所でも、先に挙げた孔子の「七十にして」の境地が「宗易の今茶湯の風体也。名人一人の他は無用と云々。(千宗易が到達した現在の茶の湯における風体である。千宗易という名人一人のほかは真似のできない世界であろう。)」といったり、「宗易、茶湯も早冬木也。平人には無用也。(宗易の茶の湯は早くも冬木であり、平人にはこの境地は無用である。)」など、利休の実験の特殊性、特異性を随所で強調している。それほど覚醒した利休はぶっ飛んでいた。かれはもはや境界の向こうにいる。

 

 それにしても、侘び茶が単に先人のやり方を真似るだけの「法度」しかもたなければ、あれほど多くのひとびとが夢中になることはなかっただろうし、今日まで茶道という文化として長く継続してこなかっただろう。宗二自身、かりに茶の湯の決まり事を習得しても、「非作」(独自の工夫がない)ならば真に習得したことにはならないと述べている。「茶湯仕様の儀、習いは古きを専らに用ゆべし。作意は新しきを専らとす。風体は堪能の先達に任すべしと也。その節々の時代にあう様に分別すべし(茶の湯の仕様では、習いの段階はかねてから評価のある古い道具を使うことが肝賢であるが、作意を学ぶには新しい道具を使うことが肝賢である。茶の湯の風体は、流行の最先端を示すことに長けている先輩茶の湯者に任すべきであるが、時代に応じて様変わりする茶の湯というものを理解する必要もあるだろう。)」。つまり、茶の湯の決まり事を習得しても独自の工夫がなければ十分ではない。なぜなら変遷する時代に応じて「茶の湯の風体」も変わっていくからだ。かくのごとく、ごく当たり前の侘び茶でも「作意」としての特殊性や特異性は否定していない。むしろ、それがあってこその侘び数寄であると宗二は主張している。だが、越境してしまった利休のそれと宗二のいうそれとのあいだには明らかに断絶がある。

 

 筒井紘一氏の『利休の茶会』は、記録に残されている利休の茶会を詳細に分析することで、侘び茶の「作意」がどのようなものだったのかを教えてくれる。利休がまだ二十三歳と若かりし頃の茶会が『松屋会記』に記録されていて、これが記録に残る最も古い利休の茶会だが、筒井氏は、ここでもうすでに利休独自の「趣向」が表れているという。一汁三菜の前席が終わって中立ちの後、床の上に四方盆に乗った香炉が袋入りで置かれた。これはふたつの点で「セオリー違反」をしている。ひとつは、これからの後席はお茶を点てるのだから、四方盆に乗っているのは、香炉ではなく茶入でなければならない。ふたつめは、香炉は通常香を焚くために炭を入れておく必要があるが、利休はそれをせず、しかも袋に入れて床に飾った。いずれもが茶の湯の常識から逸脱しているので、袋から香炉が取り出されると、招かれた客はおかしいなと驚く。利休は、しかし、その香炉をいったん水屋に下げて、火を入れて再び持ち出して香を焚きながらしばし数寄談義をした後、茶を点てはじめる。利休が敢えてそうしたのは、「当時の茶会では中立の間に後炭をしていたため、後席に客が入ったあと、炭の火がおこり、茶を点てるに丁度良い湯相になるまでの時間調整が必要だったからである」。客ははじめおかしいなと驚いたが、後席の進行につれて、香炉が間を演出するその配慮に気づいて、それが利休独自の工夫だったと気づく。もうひとつ、利休四十三歳の茶会で、同じく後席の床に自身お気に入りの「鶴の一声」という鶴首花入に花を入れず水だけを口まで入れて飾ったという話は有名である。あまりにも見事な花入なので、花ではなく花入を観てほしいとの思いからそうしたというのだ。それならば水は不要と思うが、この美しい花入に皆さん心のなかで想うままの花を入れてくださいという心憎い演出である。いずれも利休独自の「趣向」であり、宗二がいうところの茶の湯の「作意」にほかならない。(続く)


柳下季器「赤 聖」

    今年生誕500年を迎えた利休について私見を述べるにあたって、13人の作家の皆さんに利休をイメージさせる作品で御協力いただきました。連載はひと月にわたりますが、紹介させて頂いた作品は「ぐい呑み選by篤丸」にて、11月19日からアップいたします。今に息づく利休の造形をお楽しみ頂ければ幸いです。