古田織部~織部狩りの理由(わけ)⑤ | ぐい呑み考 by 篤丸

ぐい呑み考 by 篤丸

茶道の世界では、茶碗が茶会全体を象徴するマイクロコスモスとされます。だとすれば、ぐい呑みはナノコスモス。このような視線に耐える酒器と作家を紹介します。

    ひとつは、織部好みの器たちと織部自身との関係の近さにある。たとえば、信長と名物茶道具との関係は、道具とその使用者(所有者)のそれ以上ではない。昔の権威であった足利将軍家が使用した唐物茶道具を、今の権威たる信長が集めて再び使用する。利休とその道具も、楽茶碗を除けば、これと同じ関係性にある。ただ、かれの場合、将軍家のお墨付きだけでなく、見立てと称して先輩茶人たちの見いだした新しい価値観や、自ら発見した美意識をそこにつけ加えた。その場合でも、基本的に、道具とその使用者という関係の域を越えていない。しかし、織部と織部好みの道具となると、そこには創造という次元の異なる要素が入ってくる。道具とその使用者というだけでなく、道具とその創造者という新たな関係性が。これは、利休が長次郎とドラスティックに先鞭をつけた新しい関係性の延長にあるが、利休の場合、晩年になって使いはじめたのと、窯も長次郎窯に限定されていたことから、道具との関係全体でみたとき、それの占める割合がごく小さい。これに対して、織部の場合、自分が創作に関わった道具の割合のほうが、種類、数量、そしてイメージにおいても圧倒的に大きい。銅緑釉を使った器を「織部焼」と呼ぶように、道具と織部のイメージとは密接かつ直接的に結びついている。極言すれば、青織部の手付鉢の向こうには織部の顔がみえているとさえいっていい。だからこそ、織部が否定されるとなれば、道具たちもまた否定されねばならなかった。

    さらに、織部が切腹を命じられる前までは、織部好みの道具たちは一世を風靡していたし、市場に多数出回っていた。その需要に応えるため、美濃の山中ではフル稼働する窯が数多あったろうし、店先にもところ狭しと並んでいたことだろう。それは、先にみてきたように、長次郎の楽茶碗とは比較にならぬほど、大規模な市場を形成していたことだろう。それが、その仕掛人たる織部の切腹を境にして一変する。その落差がアレルギー反応を引き起こす。お上から主が否定されたのだから、道具もまた否定されなければならない。今否定しなければならないモノをこれまで重宝がりすぎて、今手元にあってはならないモノが目の前にたくさんありすぎたとすれば、どうか。結果は歴然、三条町のせと物やたちも、上京に暮らす公家や武家たちも、産地の窯元や陶工たちも、おそらく、半ばパニック状況に陥るにちがいない。三条せと物や町から伺えるヒステリックな現象が起こるのも無理はない。

    このヒステリーの発端が元々徳川方にあったことを忘れてはならない。とりわけ家康の織部に対する過剰ともいうべき反応は注目に値する。すでに老境を迎えて、息子秀忠を将軍とする徳川政権を盤石のものとするために、後顧の憂いとなる豊臣家を排除せんとする家康の思惑は露骨で、方広寺の鐘の銘文の一件といい、国替えや淀殿人質要求といい、騙し討ちのような堀の埋め立てのやり方といい、政治の力学が善悪や良心に関係なく働くことを後世に伝えている。それは、戦後の落人狩りにあっても徹底していて、豊臣に連なるいっさいの勢力を根絶やしにせずにはいられない家康の焦燥感さえ感じられる。異常なヴォルテージで遂行される殲滅作戦のなかで、大阪方に内通した織部が切腹を命じられるのは不思議ではない。ただ、家康の織部に対する処罰はいささか重すぎるようにみえる。本人のみならず、嫡男の重継にも切腹を命じ、この後追いで、次男重尚、三男重廣、四男重行も切腹している。秀頼に仕えていた重行はしかたないとしても、重尚、重廣は、それぞれ徳川方の加賀の前田家、播磨の池田家に仕えていたし、将軍秀忠の配下にあった五男の重久にいたっては、夏の陣で徳川方として参陣して戦死しているのに、何とかならなかったのか。織部は、結局、男子すべてを失い、その家名を後世に伝えることはできなかった。

    秀吉の腹心だった福島正則は、主君の死を境にして石田三成と対立して、関ヶ原では家康の東軍についた。戦功が認められて戦後は安芸備後五十万石の大大名となる。その弟高晴も、兄と同様関ヶ原で活躍し、大和宇陀三万石を拝領する。ともに関ヶ原の勝ち組の典型だが、この高晴が大阪の陣で豊臣方に内通する。織部と同じ罪なのに、こちらは改易どまりで、しかも孫の忠政による家名存続も許されている。織部の処分と比べるとずいぶん軽い。兄の正則の功績に守られて厳罰を避けられたことは想像できるが、その四年後には正則も違う罪で領国を失うことを考えれば、その盾もそれほど強靭ではなかったようにもみえる。いずれにしても、同じ内通にしては、織部と高晴の処分には開きがありすぎる。また、豊臣政権の五奉行のひとりだった増田長盛は、関ヶ原で石田三成の西軍につき、敗戦後改易されて、高野山、続いて武蔵国の徳川家家臣に預りの身となる。こちらは福島正則と違って負け組。この長盛の嫡男の盛次が、尾張徳川藩に仕官していたにもかかわらず、大阪夏の陣では出奔して豊臣方に与する。盛次はそこで討ち死にするが、父親の長盛はその責めを負って切腹を命じられる。それでも、織部と同じように身内が豊臣方についたにもかかわらず、長盛のその他の息子たちは切腹することなく、増田の家名はその後も存続した。これもまた、織部に下された処分と比べて軽くみえる。(続く)

                       黒織部    深見文紀

《黒織部》黒織部は、織部が関わったとされる黒茶碗のなかでも最も発生年代が遅い。瀬戸黒が織部黒になって、そこから黒織部が生まれた。前二者と黒織部との決定的な違いは、器胎の窓とそこにある絵の存在である。志野や絵唐津にも絵はあるが、釉を敢えて掛け外してそこに絵を描くというのは、それまでにない画期的技法といっていい。これを端緒にして、青織部、鳴海織部と同趣の茶碗が続いたことから察すると、これに織部が関わった可能性はかなり高い。このスタイルこそ織部的ともいえるのではないか。黒織部をそれらしくつくる作家が少ないなかで、深見さんは真正面からその造形に挑戦している。

※篤丸ショップで6月12日(土)から「それぞれの織部展」を開催します。写真の作品も出品されます。