古田織部~織部狩りの理由(わけ)② | ぐい呑み考 by 篤丸

ぐい呑み考 by 篤丸

茶道の世界では、茶碗が茶会全体を象徴するマイクロコスモスとされます。だとすれば、ぐい呑みはナノコスモス。このような視線に耐える酒器と作家を紹介します。

    さらに、出土品にトチンなどの窯道具がついているからといって、窯買いした製品をまるごと引き取るというのには論理の飛躍がある。各地の窯跡にきまって「モノハラ」と呼ばれる不良品の廃棄場所があるように、売り物にならない製品は、窯出しのときに陶工たち自ら選別していたはず。第一、そんな不良品まじりの大量のやきものを輸送すること自体、コストが無駄にふくらんで不合理だろう。降矢氏の説明は、産地のプライドを考慮してないし、商売における経済的視点を欠いているようにみえる。百歩譲って、氏のいうように、商品にならない不良品が処分されていたとしても、その廃棄場所が町屋の裏庭というごく狭い空間というのも不自然ではないか。氏の指摘通りに、各地の窯場からひと窯単位で買った大量のやきものが運ばれてきたとすれば、それこそ売り物にならない廃棄対象もそれなりのヴォリュームがあったにちがいない。恒常的に一定量の廃棄物が出るとなれば、裏庭に穴を掘るだけで収用しきれたはずがない。しかも、三条「せと物や町」は織部没後少なくとも十年以上は商売を続けていたことがわかっているから、だとすればその廃棄物に織部好みでないやきものが混ざっていてもおかしくない。それなのに、発掘された出土品のほとんどが織部の影を感じさせる茶陶ばかりなのはなぜか。

    残骸ともいうべき三条町の遺物が物語るのは、「せと物や町」の主たちが似たような時期にそれらを店の裏庭に捨てたという事実である。というよりむしろ、他所にもっていくのではなく穴を掘って埋めていることを考慮すれば、店に並んでいた商品やそれを待つ在庫たちを急いで廃棄する、より厳密にいうなら、目の前からなかったものとする必要に迫られたというべきだ。いったい何があったのか。ものは織部好みである。歪んだ茶碗のその形のせいだろうか。いや、それならば、そもそも流行の対象になっていない。慶長期のニューヨークやミラノともいうべき京都で、ショウウィンドウならぬ店の棚々を華々しく飾っていただろう最先端の茶道具が、ある日突然廃棄物扱いされる。それほどの価値観の転換を強いる事態が生じたのは、モノそれ自体の有り様というより、それをつくりだした存在への視点が劇的に変化したからと考えるほうが自然である。推し量るに、それは織部の自刃から始まった。

    先にも述べたように、織部は将軍秀忠の茶道指南役まで務めて、徳川政権にあっても秀吉時代に築いた名人の地位を維持するだけでなく、さらにそれを高めていった。三条町の「せと物や」には、だからこそ、時の最先端をいく流行の品として織部好みのやきものがところせましと並んでいた。名人による最新の茶道具としてもてはやされているだけでなく、お上からの御墨付きさえもらっていたのだから、武家や町人、貴族の別なく、茶の湯をたしなむ面々にとって、それは、今日ティファニーやプラダのブランドがそうであるように、こぞって求められる憧憬の的だったにちがいない。奇抜なデザインや歪みなどの織部スタイルが魅力的だったのは確かだとしても、茶人としての名声や将軍家という権威からの保証がそれにさらなるバイアスをかけていたのもまた事実だろう。しかし、織部が幕府から切腹を命じられることで、それらの根拠は消滅してしまう。消滅だけならまだましだ。権威によるバイアスがなくなるというだけで、モノの良し悪し自体にさして影響はない。だが、ことは切腹である。単に御墨付きがなくなるというだけでなく、敵方に内通した罪人が好んだ道具という刻印を押される。それはもう、バイアスどころか、モノ自体が否定されるところまでいってしまう。

    織部好みの流行は、お上との良好な関係性という政治的なバックボーンが多分に影響していただけに、ひとたびそのベクトルが反対を向くと、今度はそれに負のバイアスがかかる。モノ自体に罪はないとはいえ、罪人に関わっているというだけで、蜘蛛の子を散らしたようにそこからひとが離れていく。今と違ってはるかに強大で制限のない政治権力が否定しにかかるのだから、それを評価するのはもちろん、所有するのも、使用するのも、売買するのにも多大なリスクが伴う。お上に睨まれたら危ない!。織部切腹の報を聞いて、時勢に敏感な京の商人たちが、かれの指導で扱ってきた「せと物」に突如としてとてつもない危険性が宿ってしまったことを察知したのは想像に難くない。織部とせと物やたちとのつながりは、堀川のかれの屋敷と三条町とのわずか一キロほどの距離以上に近かった。だからこそ、自分たちの主ともいうべき存在の消息はいちはやく伝わったろうし、それゆえに、店主たちの危機感はいっそう増大したにちがいない。町屋の裏庭に掘られた穴に捨てられた残骸たちは、だから、当時のかれらの切迫した状況を直載に物語っているようにみえる。織部と一蓮托生で商いをしてさんざん儲けてきた連中が、かれと結託して敵方に内通していたと邪推されてもおかしくない。いや、もしかしたら、それは邪推ですまないかもしれない。今日ワイドショーを賑わすゴシップにみられるように、情報は政治の力学でどちらにも転ぶ。せと物やの主たちは、いてもたってもおられず、まずは目の前から織部の痕跡を消し去りたかったのではないか。(続く)

           織部四彩  西岡悠

《織部焼》織部焼というと、狭義には銅緑釉のかかった青織部のことをさすが、広義にとらえると、その種類には、織部黒、黒織部、青織部、総織部、鳴海織部、赤織部、弥七田織部がある。西岡さんは、この作品で、黒釉を用いて窓に絵を描く黒織部と、緑釉と赤土に絵を描く鳴海織部を交互につなげた。結果として、弥七田を除けば、織部焼を構成する四つの技法がすべてひとつの器に共存することになった。作家はそれを「四彩」と名づけた。弥七田は織部亡き後につくられた特殊な織部なので、これを除けば、この作品には織部焼のすべての魅力が盛り込まれているといっていい。

※篤丸ショップで6月12日(土)から「それぞれの織部展」を開催します。上記の作品も出展されます。
    また、6月2日から8日まで名古屋松坂屋で「西岡悠陶展」が開催されます。西岡さんのライフワークである黄瀬戸を中心に、瀬戸黒、織部、そして織部四彩が展示されます。
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