井戸 岡本作礼(後編) | ぐい呑み考 by 篤丸

ぐい呑み考 by 篤丸

茶道の世界では、茶碗が茶会全体を象徴するマイクロコスモスとされます。だとすれば、ぐい呑みはナノコスモス。このような視線に耐える酒器と作家を紹介します。


 冒頭に紹介したコーヒーのシーンは、そのゴダールの『彼女について私が知っている二、三のこと』に登場する。『勝手にしやがれ』の車のシーンとともに、そのフランス人講師が授業で取り上げた材料のひとつで、とくに印象に残っている。とあるカフェで男がコーヒーをかき混ぜる。ゴダールはその様子をカップの真上から接写する。すると、コーヒーの泡が、渦巻き状にゆっくりと旋回し始め、次第に薄まっていき、最後には消えてなくなる。コーヒーをスプーンで混ぜる行為は、どこでもみかけるごく日常的な光景だが、それを違う撮り方をするだけで非日常的な現象となる。観客には、巨大なスクリーンに映されるコーヒーの黒が、映画館の暗闇とともに、宇宙の暗黒を構成し、泡の旋回があたかも星雲のようにみえる。それは、つまり、コーヒーカップに極端に近づくことでミクロの視点をつくり上げ、それによってマクロを表現することにほかならない。研究室の小さなテレビでみただけだったが、それだけでも、映画館で起こるだろう視覚的な事件は容易に想像できた。それは、まさに「事件」と呼ぶにふさわしく、たいしてゴダールに執着のない者にも、十分衝撃的だった。

 昨日まで、大阪の尾崎さんのところで、作礼さんの個展が開催されていた。ゴダールについて長々と書いたのは、そこで分けて頂いた作礼さんの井戸盃をみていたら、『彼女についてー』のそのシーンを思い出したからだ。上の写真のように見込みをジッとみていると、渦巻き状になったろくろ目が、あのコーヒーの泡のように、今にもゆっくりと旋回し始めそうで。井戸茶碗の名前の由来には諸説あって、文禄・慶長の役で井戸覚広が持ち帰ったという井戸氏説や、朝鮮半島のイドというところでつくられたという産地説があるが、残念ながらいずれも確たる裏付けを欠く。それらとともによくいわれるのが、見込みが井戸のように深いから、という説もある。だが、これは、いかにもこじつけっぽくて、筆者などは、それはないだろ、と、事実からいちばん遠いとこれまでは思っていた。しかし、作礼さんのこの井戸をみて、もしかしたらこの説もありかも、と思ってしまった。見込みの中心に向かって旋回するろくろ目もさることながら、たっぷりとした碗形が懐を広くして、見込みの深遠をいっそう強調する。ゴダールのコーヒーコスモスのように、いつ事件が起こってもおかしくない。

 秀作の揃う作礼さんの今回の展示のなかで、ひときわ目を引いたのが、楽を意識した黒唐津の茶碗。長次郎を想わせる造形だと思って手にとってみると、腰に亀甲削りが施されている。亀甲削りといえば、高麗茶碗の御所丸だが、本歌が重層的な削りであるのに対して、こちらは一列で、どちらかといえば、薩摩や高取の茶碗にある遠州好みのようにもみえる。長次郎、高麗、遠州、と異質な要素が重なれば、当然不協和音が響いてもおかしくないところ、そうならないのは、この方の造形に備わる品格が作品の芯をこしらえているからだろう。写真の作も例外ではなく、けっしてキレのいい造形とはいえないのに、どこか品を感じさせる井戸である。これまで幾度も御作に触れる機会はあったのに、井戸盃に出会うことはなく、ギャラリーに向かう道中でそんなことを考えていたら、この作品が酒器の棚の真ん中にあった。迷うことなく手に取った。

 映画や詩の世界とは違って、やきものにゴダールやブルトンのような存在はいない。芸術というよりも産業的な色合いが濃いこの世界では、かれらの果たした役割を技術革新や流通革命が担った。いまや、どの産地のどんな土でも自在に購入することができるし、小型で高性能の窯も開発されている。おかげで、その気にさえなれば、誰でもいつでもやきものをつくることができる。それは、業界にとって裾野が広がって有益なことにちがいない。ブルトンの『宣言』以降、自称シュールレアリストが急増したように、ヌーベルバーグが流行した結果、似非ゴダール的な作品が素人のあいだで溢れかえったように、創作の大衆化がジャンルの隆盛に貢献したことは確かである。『シュールレアリスム宣言』から90年あまり、『勝手にしやがれ』から60年足らず経た今、大衆化はますます進化し、いまや素人の技が玄人のそれと区別のつかない時代を迎えている。表現の世界では、あらゆる境界が混沌とし溶解しているようにみえる。それでも、似非ゴダールは所詮ゴダールではあり得ないし、安易なオートマティスムに詩が創造できるわけがない。こうして作礼さんのような作品に接すると、ゴダールのあのコーヒーコスモスのような、玄人の創作行為はいまだ健在だと安心することができる。