河内の狭山の六兵衛は若いときは極道で、ちっとは名の知れた男だったが、改心して親の家業の餅屋を継ぎ、壮年になり、村の世話役として、さまざまに施しをしたり、また若い極道の食い詰め者を世話して足を洗わせて、正業につかせていた。
タツというチンピラを、和尚の死んだ檀家寺の跡継ぎにと出家をさせて、寺を継がせるが、仏教修行などしたことがないなまくら坊主、いい加減なお経と作法で誤魔化している。
越前永平寺の旅の修行僧が問答をしたいと願い出た。負ければ寺を追い出される。和尚はいないとその場を取り繕うがまた明日もやってくるという。困りに困って寺を夜逃げをしようと寺の道具を叩き売ろうとしたとき、六兵衛がやってくる。六兵衛に相談すると、俺が和尚にばけてその坊主と問答をすると言う・・・
江戸落語では「蒟蒻問答」、上方では「餅屋問答」。関西は丸蒟蒻でなく、四角い蒟蒻なのであまりなじみがないため、また蒟蒻屋の商売がないため、餅屋になったらしい。
「蒟蒻問答」をする上方落語の咄家さんは「胸中は」の問いかけを丸で表さず、四角で表す人もいる。
「十方世界は五戒で保つ」
「三尊の阿弥陀は眼下にあり」
何のこっちゃですが、これは仏法的に正しいことを言ってるのか?今度、露の団姫さんに訊いてみよう。
桂米紫さんの「米紫の会」で久しぶりにこの「餅屋問答」を聴いた。その様子はまたあとで。