その日、昼食を抜いた。空腹でめまいを起こしたのかと思った。それは地震だった。
夕方津波が来ていることを防災無線で知った。
でも、そのときはそんなひどい事態とは思わなかった。夜、仕事帰りにそんなひどい状態になっていたことをラジオで初めて知った。
その直後の物不足で大変だったのを今でも覚えている。特に親父の介護パンツがまったくなく、製造がストップしたのか、被災地に送られたのか、被災地に物資を送るために輸送手段が止まってしまったのか、どこにもなかった。文字通り大阪中走り回った。東日本大震災、被災地された方を案ずるよりも、頭の中が「介護パンツ、介護パンツ」だった。ぶつぶつ呟くほど・・・
陸前高田の同業者は全員津波に飲み込まれて亡くなった。同業者の集会で大阪からボランティアに行った人から話を聞いた。うちも派遣で被災地に行った。
「そんなことにはならないかと思います」
当時の上司がこう言った。今でも覚えている。
想定なんてできないかもしれない。不測の事態なんていっぱいだ。なんであんたは言い切れるのかとあの時思ったものだ。
熊本、鳥取、北海道、北大阪と地震はたびたびやってきた。台風もだ。豪雨災害もだ。噴火もある。ますます日本は住みにくくなったと思う。
被災して住むところを無くすかもしれない。それ以上に命さえ失うかもしれない。
明日は我が身だ。
15000人の死亡者、また今も5万人の方が避難して生活していると聞く。
改めて追悼とお見舞い申し上げます。