さて、慶応3年(1867年)11月15日、坂本龍馬は京都近江屋において、中岡慎太郎と会食中に、何者かに襲われ殺害された。
当初、新撰組の仕業とされ、実行犯とされた男がいたが自白を撤回している。海援隊の陸奥陽之助は先般紀州藩とのいろは丸事件から紀州藩と邪推し、天満屋事件を起こした。 近藤勇が士分になりながらも、切腹ではなく、斬首刑になったのは坂本龍馬の暗殺が新撰組説がであることから起因している(らしい)。
箱館戦争ののち、捕虜となった今井信郎が京都見廻組時代に佐々木只三郎らと龍馬暗殺を実行したと証言し、今では京都見廻組説が定説になっている。
実行犯が京都見廻組だとしても、近江屋に龍馬が居ることを誰が伝えたのたか。おそらく、佐幕方よりも味方、薩長土の誰かではなかったかとも推測できる。
坂本龍馬の独創的な考えについていけなかったのではということだ。
多くの志士の考えは天皇を擁立し新しい君主制を考えていたのに、龍馬はその先の立憲君主制、もしくはもっとその先の議会制民主主義を目指していた。尊皇派としては天皇をないがしろにした危険思想に映っていたのではないだろうか。
横井小楠と会談中に、その考えの危険性を指摘されている。先進過ぎてテロで命を落とした横井小楠から危険すぎると言われたくらいだから、当時としては相当危険すぎたのだったのだろう。
結局は龍馬の唱えた、議会制民主主義に至るのだが。ひょっとしたら別の次元まで考えていたかもしれない。その別の次元とは、「世界の坂本龍馬になる」と発言から世界進出、一種の世界政府を考えていたのかもしれない。
今年、今日は坂本龍馬没後150年目の命日にあたる。
そんなことを誕生日の夜に歯医者で歯をいじられながら考えていた次第である。
この考えは全くの私説であって定説ではない