米騒動発祥の地は意外とおとなしかった? | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

米騒動―地元でもピンとこない大事件発祥の地

富山市の東に位置する魚津は近代の農民の抵抗で最も著名な「米騒動」発祥の地である。初めて行ったときはひとり旅だったが、JR魚津駅前でタクシーを拾い「米騒動発祥の地」と言ってみたが、五十代のベテランドライバー氏はきょとんとした。そしておおよその場所を伝えると、「もしかしたらあそこかも」と言われて到着した場所は、海岸に面した児童公園にある三つの米俵のモニュメントだった。「米騒動」は中学時代にならったが、地元ではどうやらタクシーの運転手さえピンとこない場所だったらしい。

1918年には米価が高騰し、家族を食べさせることができないことを危惧する人々が増えた。それまで4年間続いていた第一次世界大戦中に、この海の向こうのロシアで革命が起こり、マルクス・レーニンの思想に基づく世界初の社会主義国が誕生しようとしていた。

しかし資本主義や天皇制といった明治政府の国造りの根幹を否定するこの思想が樺太の国境を隔てただけの隣国にできることを危惧した寺内正毅内閣はシベリア出兵を決定した。するとシベリアに駐留する日本軍向けのコメを持ち込む際、政府が高めにコメを買い込むと踏んだ米問屋がコメを買い占めたため、米価が高騰したのだ。

「土地はその母」

農産物というのは大地と人間の労働力の結晶である。マルクスは「資本論」の中で次のような文を引用している。

「労働はその父であり、土地はその母である。」

しかし、資本主義が急速に発達しつつあった当時、農村を離れて工場労働者となる人々も増えつつあった。すると米作に携わる人口も減少してきたことも挙げられよう。マルクスはこのように説明する。

ブルジョワ的資本家たちは、とりわけ土地を商業取引に転化させ、農業大企業の領域を広げ、農村から鳥のように自由な無保護の労働者を供出する操作に手を貸した。 しかも新しい土地貴族は、 孵化したばかりの新しい銀行貴族、そして当時、保護関税で助けられていた大工場主の本来の同士でもあったのだ。

農村から離れた労働者を「自由な無保護」と考えるのは、労働者を野良犬、野良猫あつかいしているようなものだ。そして彼らを労働者、というよりモノ言わぬ歯車として受け入れ、大量生産によってますます利益を得るのが大工場主であり、また彼らに資金を貸す銀行家だったのだ。

 

「越中の女一揆」勃発、ではなかった?

7月下旬、ここには数十人の漁民のご婦人方が、目の前の海の船にコメを積んで北海道に向かおうとするのを阻止しようとした。「土地はその母」というマルクスの引用通りかもしれない。とはいえ暴力的なことではなく、弱者が集まり家族を食わせることができないからと嘆願したに過ぎない。また、富山藩では凶作の年にコメの貸し付けをしていたし、明治以降は困窮者にコメを配給していた。そのような経緯もあって、一度地元のコメをいったん流通されたら高値で買わねばならなくなるから、このような時の通例として流通させないように懇願したのだ。

しかし日清・日露戦争以降、新聞購読層がすでに高まっていた当時、例えば「米の暴騰が生んだ富山の女一揆 此儘(このまま)では飢死する 生か死の境目だと叫ぶ」などというセンセーショナルな見出しの新聞記事を読んだ人々が立ち上がった。それは全国に飛び火し、沖縄、青森、秋田を除くすべての道府県で米騒動が巻き起こった。読む人の目には、富山という土地柄、一向一揆の記憶が思い起こされたのかもしれない。

結果として長州閥の軍人出身、寺内正毅首相は辞職し、盛岡出身の平民宰相、原敬内閣の幕開けとなった。魚津の婦人たちによる要求が、「瓢箪から駒」のように藩閥政治を終わらせ、本格的な政党政治の幕開けとなった。

都会のインテリはその二年前に新聞に掲載されていた河上肇の「貧乏物語」等でマルクス・レーニンの思想を実感したのかもしれない。しかし頭ではなく、地に足をふんばって生きる漁民の婦人方からすれば、これまでの平穏な生活を取り戻したいだけであり、イデオロギーとは無縁の、家族を守りたいという思いから立ち上がったに過ぎない。そして家族を思う力が大正デモクラシーにつながったのだ。(続)