道東エコツーリズム④知床五湖・オホーツク海 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

知床五胡へ

駐車場に向かって知床五胡まで数キロ運転した。その往来に通った際見た木々もみな植林されたもので「手つかずの自然」ではない。「手つかずの自然」も価値が高いが、人々が懸命に「戻した自然」にも別の価値があることを知るのがエコツーリズムであろう。

知床五胡を訪問する観光客はまず十数分のビデオを見ることになっている。動植物に関する注意事項、特にヒグマ対策の基礎知識などを学ぶ。「クマが出た!」と驚くのは人間側の勝手であり、クマからすると「俺たちの縄張りに人間どもが入ってきた!」と思っていることが改めてわかる内容だった。質疑応答時間の後はいよいよ出発である。

「知床五胡」というが、実は水深は3m~4mだ。一般的に湖とは5m以上で底が砂や砂利であるが、この程度の水深で底が泥ならば沼である。「沼」より「湖」のほうが美しく響くが、実は生態系が豊かなのは沼のほうである。エコツーリストは風光明媚よりも豊かな生態系のほうに興味を感じるものらしい。

 夜にはシマフクロウが飛んでいそうなこの森は、クマはもちろん、シカやキタキツネなどの野生の王国だ。以前9月後半に訪れたときは、途中の川で遡上してきたサケがピチピチはねていたのを思い出した。ここは本来人間のいるべき場所ではないことを歩きながら息子に教えた。山のふもとの数々の沼とそびえる山を見ながら歩き、最後に湿地帯の数メートル上にかけられた木製のボードウォークを歩いて駐車場に戻る。湿地を守りつつその上を歩くにはこれが最も良い方法という。

エコツーリズムのガイドというのは文化財を中心に歩くガイドと比べてより即興性を求められることを痛感した。特に木の幹に動物のひっかき傷を見つけたり、動物のフンを見つけたりした時の対応はアドリブを利かせねばなるまい。どこでどんな花が咲いているか、どんな動物が出るか、そして天候がどう変わるかなどは大まかな予想はできてもその時でないと分からないものだ。ガイドと自然がジャズのジャムセッションをしているかのようでもある。

 

カムイワッカの滝へ

駐車場に戻るとウトロ港に向かった。私たちの乗った観光船は冬には砕氷船オーロラ号として流氷の中を進む。いくつかのコースがあるが、知床五胡からさらに先に行ったカムイワッカの滝まで行って帰るコースを選んだ。海岸線は圧巻なまでの断崖絶壁が続き、ジオパークとしての知床の魅力を再発見した。

40分ほどでカムイワッカの滝の前についた。落差約30mのこの滝は、温泉水が滝となって流れる。アイヌ語で「カムイ」とは「神」、「ワッカ」は「飲み水」を意味する。アイヌ人も和人も天地山水を「カムイ(神)」として崇め、畏れてきた。その「カムイ(神)」に対し、水俣で、阿賀野川で、四日市で、瀬戸内海で、北海道各地で、そしてフクシマで、とんでもないことをしてきたのが我々人間である。

そのことに気づくと、日本のエコツーリズムが、そしてその上位概念であるサステナブル・ツーリズムがどうあるべきかの答えが見えてきた。それは「カムイ」としての自然ともう一度つきあうことである。

国連世界観光機関(UNWTO)は「持続可能な観光」を「訪問客、産業、環境、受け入れ地域の需要に適合しつつ、現在と未来の経済、社会、環境への影響に十分配慮した観光」と定義している。これによると重視するのは過去ではなく現在と未来、そして配慮すべきは経済、社会、環境だという。分かるような分からないような定義だ。そこで私は私なりに日本のあるべきエコツーリズムおよびサステナブル・ツーリズムを次のようにまとめた。

 

日本のエコツーリズム・サステナブル・ツーリズムとは

①観光開発は自然の神々への感謝と謝罪から始まる

②観光開発は自然のメンバーだった土地の先祖にも相談する

③来訪者に自然の神々や先祖たちの声を聴いてもらうことで世界観を共有してもらう

④観光客には自然の神々と遊んでもらい地域経済をまわす 

⑤利益は自然や先祖の文化の保持のために還す 

アイヌ人を含む我々の先祖たちは自然との付き合い方を知っていた。どこまでやれば自然の逆鱗に触れるか知っていた。だからその範囲内での開発をしていた。そして自然の恵みに感謝し、自然を傷つけたらそれに謝るために祭をしてきた。だから先祖が自然と交渉してきた道にもどるのがサステナブルというものであろう。

またガイドの役割としては、単なる物見遊山だけではなく、観光客に自然の声、それと試行錯誤しつつ、これまで付き合ってきた先祖たちの声を知ってもらう。これはガイドというよりも自然の声を感じ取り、代弁する者=interpreterというべきかもしれない。我々通訳案内士のことを英語でGuide interpreterというが、interpretとは言語だけではなく自然の声の代弁者なのだ。

カヌーやカヤック、サイクリングなども悪くない。しかしそれをアウトドアスポーツやアクティビティといった単なる消費活動として行うのではなく、自然の神々の世界をのぞかせてもらうという気持ちで行うのが大切だろう。ちょうど神社に参拝するときのように。こうして「自然との付き合い方」を土産にし、忘れつつあった「夢」を取り戻してもらうためのストーリ性あるガイディングと、それに付随した食事や宿泊、交通や土産物等によって地域経済を回す。その中心人物となるのがガイドではなかろうか。

 

政府が知床の森を伐採した話

観光船は洋上を旋回し、ウトロ港に戻り始めた。その八か月後に観光船KAZU1が不幸にも沈没したのはこのもう少し先だ。件の船会社の社長は船や海に対して素人だったとのことだが、それは自然を知らず、自然と向き合う人間をも知らず、そしてカムイの存在も信じていなかったからだろう。だから無線も積まず、経費節約のために必要な部分まで改造した船で、天気予報まで無視して会社の利益のために出航を命じたに違いない。公害を引き起こした会社たちとそのメンタリティは極めてよく似ている。

さらにこのような船舶を厳しく取り締まらなかった政府国交省も監督不行き届きであり、責めを負わざるを得ない。政府といえば、洋上から深い緑をたたえた知床の森を見ながら1987年の大事件を思い出した。100平方メートル運動で植林を懸命にしている真横の国有林では、事もあろうに林野庁が3日間で530本の「高値が付きそうな」木々を伐採したのだ。

戦時中などの話ではなくバブル経済真っただ中の「豊かな」時代に起こったこの事件は全国紙のトップニュースになったが、当時の政府の認識はその程度のものだったろう。2005年に知床が世界遺産になる布石として行われたのが民間の100平方メートル運動ならば、それをつぶそうとしたのが政府林野庁だったとは何たるお粗末な話だろうか。

 

「地上に開く一輪の花の力」

しかし企業や政府への責任追及に関して石牟礼道子はこう述べている。

責任を追及している間は恐ろしくないんですね。攻めるだけだから。ところが、逆転を想像するだけで、立場がぐらぐらとするわけです。それまでの前提が崩れるわけですから。

「苦海浄土」のもつ普遍性は、単なる糾弾に終わらず、我々一人一人に環境問題の責任があること、逆に言えば我々一人一人が変われば地球が変わることを示唆しているところにある。

ここまで考えると、いわゆる「水俣病」とは特定の病気ではないように思えてきた。自然を無視し、神々を無視し、彼らと真摯に向き合ってきた先人たちをも無視して利益を求めようとする企業の精神構造そのものが水俣病ではないか。そしてそれがこの知床でも引き起こされた。そのような意味での「水俣病」の存在を教えてくれたのが石牟礼道子の「苦海浄土」であり、同じく水俣出身の民俗学者で、民俗学を「神と自然と人間の交渉の学」と定義づけた谷川健一だった。そしてそれはそのままエコツーリズムの本質である。

公害、そして環境問題というのは、それを元に戻そうという人々の命がけの戦いだった。エコツーリズムを行う上でこのことは忘れてはなるまい。最後に、詩人としての石牟礼道子がフクシマの原発事故に際してまとめた「花を奉る」という詩の最後の言葉を書き記して、水俣から始まったこのエコツーリズムの旅を終えたいと思う。

「現世はいよいよ地獄とやいわん 虚無とやいわん ただ滅亡の世せまるを待つのみか 

ここにおいて われらなお 地上にひらく 一輪の花の力を念じて合掌す」(了)