道東エコツーリズム③しれとこ100平方メートルハウス | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

野付半島と阿寒湖と温暖化

道東には個性的な湖沼も少なくない。例えば阿寒摩周国立公園に指定されているところだけでも、雄阿寒岳雌阿寒岳に挟まれたまりもの阿寒湖。霧と透明度の摩周湖。美幌峠からの絶景で知られる屈斜路湖。北海道最大の湖にして長さ26㎞もの天橋立のような砂州で囲まれたサロマ湖など、湖ならより取り見取りだ。また知床半島と根室半島の間にエビのような形状で28㎞も砂嘴、野付半島なども面白い。

しかし温暖化が問題となっている昨今、この地域の環境変化が危ぶまれている。例えば阿寒湖のまりもが海水の上昇により減少していることが報告されている。またトドワラ残る野付半島の砂嘴もサロマ湖の砂州も、海面からわずか数メートルである。このままいけば海面上昇によって22世紀には砂州ごと、砂嘴ごと消滅してしまうおそれがあるのだ。

昭和のころは公害が人間を殺してきた。それは人々の血の出るような思いで減少してきたが、それも国内問題だったからできたのだ。しかし平成になってから問題視されるようになった環境問題は世界規模で進行中であり、一政府が法律を厳しくしたからといって即効性があるものではない。半島そのものの消滅の可能性を見せつけられつつ、知床峠を羅臼から北上した。

 

北海道の山陽?

お盆過ぎとはいえ道東は涼しい。知床峠をぐねぐねと登っていき、目の前に羅臼岳山頂をいただく展望台で外に出ると、はるか国後島のほうから吹きすさぶ身を切るほどの風に震える。しかし町境をこえて斜里町に入ると急に日が差してきた。わずか数キロでここまでの天候の違いを感じたところは山陰と山陽の境ぐらいだろうか。

「北海道の山陰」から「北海道の山陽」に入ると、目の前に明るい海が広がる。オホーツク海だ。そして下りきったところにあるウトロという集落が、観光客のイメージする「知床」であろう。

知床自然センターに入った。シアターで知床の四季や野生動物たちをテーマにした大迫力の動画を見た。そして外部で靴に付着したかもしれない種子を刷毛で落とし、徒歩で断崖絶壁に落ちるフレぺの滝に向かう。「生物多様性」という言葉に訳されるbiodiversityという概念は誤解を生みやすい。多様な生物がいてもいいのなら外来種があって当然かというと、その反対で、外来種に固有種が駆逐されないように外来種子の侵入を防ぐことなのだ。

 

しれとこ100平方メートル運動ハウス

しばらく歩くと丸太小屋のような外観のホールが現れた。しれとこ100平方メートル運動ハウスである。風光明媚な自然景観のみを知床に求める一般的な観光客は素通りするであろうこの施設だが、人間と自然とのかかわりを考えるエコツーリストにとっては聖地といえる。

中に入るとパネル解説のほかに100平米のホールがあり、壁という壁に氏名の書いてある札が5万枚近く貼ってある。実はこの一帯は1914年から60年間にわたって開拓者たちが入植していた。しかしあまりに厳しい土地条件や自然環境によって耕作地や放牧地を離れる人々が相次ぎ、1973年には廃村となった。

東京五輪が行われた1964年、ここは高度経済成長で失われた手つかずの自然が残る最後の秘境として知床国立公園となった。翌年歌謡曲「知床旅情」の空前のヒットによって、また公害が現在進行形で自然と人間を殺していた60年代後半から70年代にかけ、自然と人間とのかかわりについて考え直したい若者たちがここに押し寄せるようになった。

「知床ブーム」に便乗して観光客のためのリゾートホテル等を廃村になった跡地に建てようとした企業は斜里町に土地を売るように交渉を始めた。一方で自然を愛する人たちはここを国有化し、自然を保全するよう町に申し入れた。

「東京にゃ、国はなかったなあ」

しかし政府は諸事情によりそれを断った。「国になんとかしてもらおう」という痛切なまでの願いはしばしば裏切られる。水俣病の解決と補償を政府に陳情するため上京したがたらい回しにされた人の言葉が「苦海浄土」にある。

東京にゆけば、国の在るち思うとったが、東京にゃ、国はなかったなあ。あれが国ならば国ちゅうもんは、おとろしか。(中略) むごかもんばい。見殺しにするつもりかも知れん。おとろしかところじゃったばい、国ちゅうところは。どこに行けば、俺家の国のあるじゃろ。

水俣も知床も日本である。日本の問題だから「国」に何とかしてもらおうと思って政府のある東京に行っても、そこには自分たちを守ってくれるはずの「国」はなかったのだ。しかも人々を本州から知床に開拓しに行かせたのは「国」であったはずだ。一体どこに行けば自分たちを守ってくれる国があるのか?これでは見殺しだ。これは昭和の時代の話とは言い切れない。平成のフクシマはどうだったか?令和の日本でも守ってもらえるのか?

「しれとこで夢を買いませんか?」

人々は国に頼らない道を模索した。遠くの政府より近くの他人。自分のことは自分でする。これが道産子気質なのかもしれない。そのころ英国で市民が少しずつ募金をして土地を買い上げることで環境破壊のもととなる施設を造らせない「ナショナルトラスト」という市民運動があると知った人々はその手法を導入した。つまり町が日本中の人々にここの価値を訴え、ほっておけばコンクリートのリゾートホテルが建ちかねないこの廃村に、植林をするための資金を募ったのだ。

そのときのキャッチフレーズが「しれとこで夢を買いませんか?」であった。一口8,000円で100平米分の土地を買ったり、相応の植樹をしたりできる「夢」への反響は小さくなかった。おそらく高度経済成長の間、人間と自然の環境をも顧みず、一方的に自然を傷つけ続けたことに対する自責の念もあったのだろう。

ここのホールが100平米であることは、これだけの面積の土地を買うことを意味し、そして5万枚近くの名札は寄付してくれた方々の一人ひとりの名前が書かれているのだ。

しれとこ100メートル運動ハウスからフレぺの滝に向かう。その途中にある木々は人々の浄財で植樹されたものである。断崖絶壁の滝の向こうは深い青さをたたえたオホーツク海である。振り返ると硫黄山の雄姿が雲の上に見える。本当にここにホテルが建たなくてよかったと思った。(続)