新潟水俣病ー水質の浄化と人心の浄化 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

止められなかった新潟水俣病

水俣の悲劇は水俣だけでは終わらなかった。九州南西の水俣とほぼ同時進行で日本海側の北東、新潟でも同様の水質汚染が起こっていたからだ。しかも1950年代終わりには水俣の「奇病」のことがスクープされていたにもかかわらず、会津から新潟市に向けて流れる大河、阿賀野川に位置する昭和電工鹿瀬工場は大量の有機水銀を清流にまき散らし、多くの魚を死滅させていたのだ。

水俣のチッソと同じく、プラスチックや合成ゴムを製造するもととなる「アセトアルデヒド」の製造過程で触媒として使用されたのが水銀だが、これを川に流すとどうなるか。科学者なら当時だれでも知っていたはずだが、見て見ぬふりをしたのだ。「苦海浄土」には被害者のこのような話が載っている。

「自分は水俣病患者だが、自分がもしチッソに勤めていたら、自分も同じことをしただろう。」

被害者にしてもこうである。ましてや従業員は、科学者としての良心よりも食い扶持を確保するために、そして自分から「仲間」を裏切るわけにはいかないため、良心に蓋をしてしまわざるを得なかった。それがチッソであり、昭和電工の空気だったのだ。最初に被害者の漁民たちが声を上げたのは阿賀野川が日本海に流れ出る河口周辺である。工場から60㎞ほどもあるため、昭和電工は自分たちの責任であるとは考えもせず、有機水銀を排出し続けた。「新潟昭和」となった工場跡地近くには、今なお当時水銀をまき散らし続けていた排水溝の跡が残る。

 

「黄門様」なしで「悪徳商人」「悪代官」と戦う人々

さらに悪いことに、国による「事実の握り潰し」が起こってしまった。政府は水俣病総合調査研究連絡協議会を発足させ、通産省が昭和電工に対して水質調査を行わせた。その分析結果としてチッソと同等かそれ以上の水銀が流出していたにもかかわらず、その結果を公表せず、あろうことに協議会を消滅させた。国ぐるみの犯罪である。私の脳裏に「昭和電工=悪徳商人」「政府=悪代官」、という単純明快な「水戸黄門」の構図が浮かんだ。それが水俣でも新潟でも繰り返されるのだが、問題は彼らの悪事を暴く「黄門様」はおろか、助さん、格さんもいないのが公害被害者だったのだ。そういえばこのご長寿時代劇が始まったのは1969年、まさに日本中公害に悩まされていた時代だった。

科学は口をつぐまないが、政治家にとりこまれた科学者は口をつぐむものだ。孔子は学問をする前に精神修養をするように説いたが、科学者としての倫理を身に着けない者が科学のみを身につけると、社会に甚大な被害をおよぼすことを、公害問題は証明している。

 

貧困と被害者と浄土真宗

また、貧富の格差の問題もこれに輪をかけた。「苦海浄土」には漁民の言葉として

「水俣病は、びんぼ漁師がなる。つまりはその日の米も食いきらん、栄養失調の者どもがなると、世間でいうて、わしゃほんに肩身の狭うござす。」

とある。熊本の水俣病患者のほとんどが漁民だったことと同じく、新潟とはいえ越後平野から隔たっているため稲作にはそれほど適していない阿賀野川沿いの漁民の中には、川魚を「主食」としてきた人々が少なくなかったという。「栄養失調」の対策としてたんぱく質を川魚で補おうとしたのが裏目に出たのだ。

ちなみに新潟に限らず、漁民には浄土真宗門徒が多い。昔から「殺生をする」とされた漁民に救いの手を差し伸べ、極楽浄土に往生できることを説いたのが浄土真宗だったからだ。興味深いことに四大公害病とされる地域は、四日市でも富山でも真宗門徒が多いのは何かの偶然だろうか。水俣病のために話ができない孫、「杢(もく)」を育てる老夫婦の言葉には、真宗門徒らしい苦悩が現れている。

「なむあみだぶつさえとなえとれば、ほとけさまのきっと極楽浄土につれていって、この世の苦労はぜんぶち忘れさすちゅうが、あねさん、わしども夫婦は、なむあみだぶつ唱えはするがこの世に、この杢をうっちょいて、自分どもだけ、極楽につれていたてもらうわけにゃ、ゆかんとでござす。わしゃ、つろうござす。」

真宗の教えでは「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽浄土に往生できるという。しかしそれでは親のいない孫はどうしてこの「苦海」を泳いでいけるのか。政府やチッソが見てくれるわけではないのだ。

 

新潟水俣病資料館の呼称

水俣市の水俣病資料館はかつての汚染地域を埋め立てて造られていたが、新潟水俣病の資料館は阿賀野川沿いではなく、汚染地域から離れた福島潟に建てられている。しかも施設名は「新潟県立環境と人間のふれあい館~新潟水俣病資料館~」ということから、「水俣病」という言葉が目立たないように気を使っているのが逆に気になる。また、内容も水俣市のものと比べると公害に対する怒りよりも、清らかな阿賀野川の豊かな生態系を再現したものや、漁民の小舟など、民俗学的視点からみた阿賀野川の紹介が半分以上で、水俣病に関してはその残りのスペースといったところか。

小学生の作成した壁新聞や語り部のコーナーなど、目に見えるところに水俣病を置かないだけなのかもしれないが、昭和電工の寄付を原資に2001年に開館したこの資料館の建設には紆余曲折があった。被害者集住地域に建てようとしても、水俣病患者であることがばれる、または患者だと誤解されると思う人々が多かったからだ。

先ほどの熊本水俣病患者も「わしゃほんに肩身の狭うござす。」と言っていたが、被害者でありながら貧困に肩身の狭さを感じねばならないだけでなく、「水俣病は伝染病だ」と思っている人々からの偏見もひどく、患者としての症状が明らかにあっても子どもの結婚のことなどを考えると水俣病患者として申請をしたり、原告として争ったりなどということはできなくなるのだ。

 

「厄介者扱い」

さらには水俣病患者の惨状が新聞や雑誌などに載り、テレビなどで放映されると、それに拒否反応を起こす住民も少なくなかったようだ。「苦海浄土」では被害者の言葉がこのように表現されている。

「う、うち、は、く、口が、良う、も、もとら、ん。案じ、加え、て聴いて、はいよ。う、海の上、は、ほ、ほん、に、よかった。」

このような表現は文学としてなら哀れをさそう。しかし自分の娘の舅や姑がこのような人であれば、かわいい娘の苦労が初めからわかっている。また、就職差別も受けたというが、親がこのような病気だと、雇用者からすれば仕事に支障をきたすことも目に見えている。偏見とはまた違う、現実的視点から「厄介者」あつかいされたくはないので、自分の地域にはこのような施設を建ててほしくなかったのだろう。

さらに大々的に「水俣病資料館」としないのも、決して昭和電工を許したからではない。その矛先が改めて自分たちに来るのを避けたいという、「寝た子を起こすな」とでも言わんばかりの悲痛な思いがそこにはあった。結局新潟水俣病裁判から三十数年たってからでなければこの施設が開館しなかった理由は、昭和電工側ではなく周囲からの無理解、偏見に起因するものだった。

 

水質汚染より治りにくい人のこころ

私は水俣に行くまで、公害被害者に対する補償は終わっているものと勘違いしていた。新潟でも同様だと思い込んでいた。しかし昭和を通して補償を勝ち取った人はごくわずかだった。その原因には、水俣病患者としての症状はもちろんのこと、居住地区やその期間、魚を中心に食べていたことの証明など、認定が極めて厳格だったからだ。それに加えて前述のとおり、結婚や就職など、家族に対する世間の目と補償金を天秤にかけ、補償金をあきらめた人も少なくなかった。また同じ漁村から患者が続出したらその漁村でとられた魚が売れなくなることを気にして村中で箝口令が敷かれたことなど、水俣病患者でありながらそれを認められない人も少なくなかったのだ。

さらに患者申請をして補償金をもらった者に対して「ニセ患者」呼ばわりする者さえいた。2009年には環境省の担当部長さえ「ニセ患者発言」をしてしまうほどだった。昭和の話ではない。環境は改善されても人権感覚は旧態依然としているのがこの国なのだ。

そう考えると「環境と人間のふれあい館」という名称、特に「人間のふれあい」という表現にはそのような裏の意味がこめられているように思われる。公害病は直接的には汚染源である昭和電工の、間接的にはそれを食い止められなかった国や県の責任である。しかし患者が自らの病を隠さねばならなかったのは我々一人ひとりの責任である。公害問題に関する無関係者はまずいないのだ。

今は美しく清らかな深緑色をたたえて流れるこの阿賀野川にはカヌーを楽しんだり川沿いをサイクリングしたりする人々もよく見かける。しかし環境は戻っても、もしかしたら「人間のふれあい」を元に戻すことのほうが難しいのかもしれない。公害問題は我々にこのような課題を我々に残していった。(続)