「真面目」ーKから先生、私、そして読者にバトンタッチされたもの | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

長岡の「真面目さ」

先述したKのモデルの松岡譲(ゆずる)は、現長岡市南部に位置する鷺巣(さぎのす)という農村の出身である。

残雪残る四月初旬、長岡を訪れた。JR長岡駅前にアオーレ長岡という複合交流施設が見える。杉のパネルが外壁に市松模様に設置されたその外観は、いかにも隈研吾らしい設計だ。この場所には本来長岡城があったが、地元で「北越戦争」とよぶ戊辰戦争で落城した後、廃城となった。そこに鉄道を敷設したので、城跡さえ残っておらず、駅前の目立たぬところに長岡城跡の石碑が残るのみだ。試みにタクシー運転手に「長岡城はどこですか?」と聞くと、郊外の小高い丘に位置する天守閣の形をした郷土史料館に長岡城があったと答えたが、そこに城があったわけではない。市民、しかもタクシー運転手からも忘れられた城なのだ。

長岡藩と言えば戊辰戦争の際に中立を唱えたが受け入れられず、奥羽越列藩同盟の一つとして近代化させた軍隊が官軍(西軍)に苦戦を強いたが、落城したことで知られる。家老にして陽明学者だった河合継之助を顕彰する記念館は駅から近いところにあり、彼が導入した当時日本に三門しかなかった最新式のガトリング砲が復元展示されている。しかし被弾してから態勢を立て直そうと同盟国の会津藩に向かう途中で亡くなった。藩政立て直しにすべてをかけた「真面目な」生涯であった。

戊辰北越戦争の後、焼け野が原となり、財政破綻しただけでなく、「賊軍」の汚名を着せられた長岡を再興すべく立ち上がったのが、旧長岡藩の大参事、小林虎三郎である。窮状に同情した支藩の三根山藩から米百俵の支援を受けたが、小林はそれを食べなかった。米は食べればなくなるが、米を金に換えて教育にあてれば長岡の復興が早まるとして、新しい時代に合わせた教材の購入と教師への謝礼に使ったのだ。なんと「真面目な」人々であろうか。

そしてその恩恵を受けた人物が戊辰北越戦争の十数年後にこの町に生まれ育ち、教育を受けた山本五十六である。後の連合艦隊司令長官となった彼は海軍兵学校で学び、会津の婦人を娶った。そしてハーバード大学に留学したのち、1923年のワシントン海軍軍縮条約、1929年のロンドン海軍軍縮条約などの締結の場にも参加した。日独伊三国同盟に関しては反対だったが、その声は届かなかった。館内には彼の名言が展示されている。

苦しいこともあるだろう。

言いたいこともあるだろう。

不満なこともあるだろう。

腹の立つこともあるだろう。

泣きたいこともあるだろう。

これらをじっとこらえてゆくのが、男の修行である。」

真面目の極致である。

 

「先生」の遺書

長岡藩という土地柄の「真面目さ」を理解していただいたうえで、Kと同じく長岡の「先生」の「私」に対する遺書を見てみよう。

私は何千万とゐる日本人のうちで、たゞ貴方丈に、私の過去を物語りたいのです。あなたは真面目だから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいと云つたから。私は暗い人生の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上ます。

Kと先生のこだわってきた「真面目さ」が、いかに価値のあるものだったか想像できる。遺言は続く。

然し恐れては不可(いけ)ません。暗いものを凝(じ)つと見詰めて、その中から貴方の参考になるものを御攫(おつか)みなさい。

暗いものも恐れずにじっと見つめ、学ぶべきことをつかめ。これは先生が、そしてKが引き継いだものに違いない。だとすると、その受け継いでほしいものは、なんだったのだろうか。

 

 「明治の精神」に殉死

1912年、明治天皇が崩御すると、陸軍大将乃木希典(まれすけ)が夫人とともに殉死した。西南戦争の際、官軍として出陣したところ、軍旗を奪われるという失態を犯した。しかし明治天皇に許されただけ。それだけではなく、日露戦争の旅順攻撃で何万もの将兵(=天皇の兵)を失ったことを詫びるためとされる。その知らせに関して「先生」はこう述べる。

夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟(ひっきょう)時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました。

「最も明治の影響を受けた私ども」というが、明治を生きた「先生」の人生の前半は長岡の「賊軍の子弟」として過ごさざるを得なかったはずである。長岡をはじめとする奥羽越列藩同盟を否定することで成り立っていた、薩長中心の明治政府とともに死ぬいわれはない。「先生」は妻に向かってさらに冗談めいて自殺をほのめかす。

私は妻(さい)に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。私の答も無論笑談に過ぎなかったのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような心持がしたのです。

ここまで読み進めると、「先生」が殉死しようとする対象が「薩長が作り上げた明治政府や明治天皇のための殉死」=「古い不要な殉死」ではなく「自分の歩んできた道を引き継いでくれる人間が現れたので、それを引き継がせ、これまでの罪を清算するための殉死」というように「自分の道に殉ずる」という個人主義が新しい大正時代にふさわしいと感じたのではなかろうか。

 

「真面目さ」のバトンタッチ

とはいえ、いくぶん小説の中の話なので、「K」と「先生」が長岡出身なのかは謎である。ただ、漱石の没後、「男手が必要だから」という理由で漱石とその妻、鏡子の娘を松岡譲に嫁がせたのは、鏡子が「こころ」にこめられた漱石の想いを受け継いでほしい相手を理解していたからではなかろうか。

「K+先生=長岡人」説が正しいとするなら、「真面目」な気風が明治になって失われ、それでもKは真面目さを守り通し、真面目であるがゆえに自殺した。その真面目さを「先生」はKから受け継いだ。それを受け継いでくれる若者がようやく見つかった。それが「私」である。「真面目さのリレー」で次にバトンタッチできる人を見つけたのだ。

そしてこの物語を読んだすべての人々に、バトンタッチするべく、漱石は「こころ」を書いたのではなかろうか。なぜなら漱石も真面目に激動の明治を生き抜き、度重なる吐血をおしてこの大作を書き上げてきたからだ。しかも執筆中の1914年には第一次世界大戦がはじまり、可視化された「死」が世界を覆いつつあったこともある。

早稲田で生まれ育ち、松山、熊本、ロンドンを経て千駄木からふるさと早稲田に戻った漱石は、「こころ」を書き下ろした二年後の1916年、早稲田の漱石山房で49年の人生を終えた。死因は糖尿病とされる。最期の言葉は「いま死んだら困る」だった。

漱石山房裏手は漱石公園となっており、漱石の胸像や「猫塚」が置かれている。道草庵という休憩所には、松山市の俳句ポストが置かれ、漱石を偲びに来た人々が一句作って投函している。あの世で同じく度重なる吐血の末なくなった親友、正岡子規とともに一句ひねっている様子が想像できてほほえましい。

 


 [高田1]

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