ペリーVS儒学者 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

儒教の目指すリーダー像

 湯島聖堂内には高さ4,6mもの巨大な孔子像がある。中国語では「山東大漢」という言葉の通り山東省の男性は背が高いことになっているが、史実の彼も身長約2mだったという。1975年に台湾のライオンズクラブから寄贈されたこの像の表情は実に慈愛に満ちており、「仁」を体現している。ちなみに同時期の中国大陸では、孔子は封建社会のシンボルとして徹底的に糾弾され、孔子廟は荒らされ放題だったという。

 銅像の奥は財団法人斯文会(しぶんかい)が毎日のように漢文や中国古典の講座を開いている。その意味では昌平坂学問所は今なお続いているといえよう。ちなみに三百年以上続いている聖堂は現在の中国にはない。世界に「孔子学院」という中国語・中国文化を世界に知らしめる施設はあるが、儒教道徳よりも語学学校であるから似て非なるものであろう。

 ちなみにここが昌平坂学問所だったころは現在の大学のように学部があったわけではない。学際的というか、現在でいう「リベラルアーツ」に近かった。孔子はこうも言っている。

 「人の上に立つ者が専門バカであってはいけない。(君子不器)」

 「人の上に立つ者は大局観を持つ。この世を下から支える人は技能を磨く。(君子上達、小人下達)」

 大所高所から全体を見渡せる目を持つ人間を養成し、学問を通して技能よりも本来備わっているはずのこころを取り戻す場所がこの学問所だったのだ。

 

君子=文系、小人=理系?

 朱子学はその後、老中松平定信などにいたってはここで朱子学以外を教えることを禁ずる「寛政異学の禁」という思想統制を行った。これでは朱子学の「専門バカ」が増殖する。世の中、リーダーだけではなく、それを支える圧倒的多数の「小人」も必要ではないか。

ちなみに儒教では「小人」とは「君子になれないつまらない人間」と誤解されがちだが、私の見方は違う。「君子」は今でいうと文系を極めた人。一方、数字や定理に裏付けられた現実的な論理的思考ができ、手に職がついている理系人間が「小人」に近いのではなかろうか。幕末の日本を動かしたのはここで学んだ人々だったであろうが、明治以降の殖産興業を支えたのは蘭学者という名の理系人間たちの高度な技術だったということを忘れてはなるまい。

このように朱子学では人間までも「理の人」と「気の人」に分けた。前者は軍事力を備えた行政マンの武士であり、男性、つまり支配層である。後者は農漁業や工業で世の中を支える庶民であり女性、つまり被支配層である。これらが対立するのではなくうまく調和することこそ世の中が安定すると考えたのが江戸幕府だった。見方を変えれば体制側に極めて都合の良い思想でもある。しかしそれだけでは二百年間も人々に支持されまい。教育による人格向上や環境論など、幅広い現象を取り扱ったため、幕末までそれが続いたのだろう。

 

西洋の軍人ペリーVS東洋の文人林復斎

このように大局的な見方ができる人材がいたことが幕末の日本を一時的に救ったことがあった。昌平坂学問所の大学頭、林復斎である。1854年にペリーの二度目の来航時、交渉役として抜擢されたのが、オランダ語はもちろん近代文明の論理は知らない代わりに、孔孟の教えに精通した彼だった。ただし彼は外交文書を熟読し、世界がどのようになっているか、江戸幕府がどのような立場に置かれているかは分かっていた。そして何よりも、世界の、宇宙の成り立ちを朱子学的には完全に理解していた。

そして西洋の軍人VS東洋の文人の交渉の火ぶたは横浜で切って落とされた。ペリーは前年の二倍以上の九隻の黒船から祝砲を鳴らしまくったが、この脅しに林たちは眉一つ動かさない。ペリーの最大の要求は開国させて交易をすることであったが、林復斎は最後までそれを拒んだ。おそらく彼のこころには「論語」のこのような一節が浮かんでいたのかもしれない。

「人の上に立つ者が無益な戦をするものではない。(君子無所爭)」

 儒教の世界では武力を使わないのが文人として、君子としてのルールなのだ。逆にペリーの恫喝外交が林復斎には野蛮で滑稽で幼稚に見えたのかもしれない。

 復斎は人道に関わること、つまり米国の船舶が救助を求めたり薪水を求めたりしたときには助けるが、物品の流通は国内で間に合っているから交易は一切断る、というシンプルなものだった。しかもそれは1842年の薪水給与令で行ってきたことの確認にすぎない。ただそれだけではペリーは本国にもって帰る「土産」としては乏しすぎる。そこで彼は日本側に7,8か所の開港地を求めた。林復斎はそれが希望ならなぜ前回そのことを言わなかったのかと問い詰め、結局一週間後に下田と箱館の二港のみを開港し、行動範囲もペリーの希望する十里から七里に狭めた。ペリーは開国したというより、城郭でいえば三の丸の堀に二か所だけ小舟を浮かべる権利をもらったに過ぎなかったのだ。

 

「和して同せず」

実はこの交渉はほぼ林復斎のペースにあったといえよう。最後にはなにかこの西洋の軍人と東洋の文人は理解し合えるものがあったのかもしれない。互いに礼を尽くして別れたが、ペリーの「礼」の尽くし方は「もし日本が外国に攻められるようなことがあれば米国が助太刀する。」というメッセージだった。まさか一世紀後にそれが実現するとはペリーも林復斎も思ってもみなかったろう。そして軍人と文人の交流という離れ業の実現を支えたのが二百年以上積み重ねてきた学問である。「論語」にこのようなくだりがある。

「譲れないところははっきりさせておき、それ以外はあくまで平和に。よくないのはそれをあいまいにしておき、後でごたごたもめること。(君子和而不同、小人同而不和)」

 幕末のこのような事実を鑑みると、昌平坂学問所での学問の在り方は決して間違ってはいなかったと思える。ただ近代において儒教の上下関係、男女関係の固定という「理気二元論」の濫用のみがクローズアップされすぎたため、儒教的な人間の在り方、世界観などに対するアレルギーが強すぎるのが残念でならない。(続)

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