纏向(まきむく)遺跡と邪馬台国
大神神社から北に2キロ余り走ると、丘のようなものが目に入ってきた。長さ280mもある箸墓古墳が、ため池にその木々をはやした墳丘の姿を映し出しているのだった。「卑弥呼の墓」と呼ばれるこの前方後円墳のある一帯は纏向遺跡となっており、「魏志倭人伝」に書かれている「邪馬台国の宮殿」候補とされる柱の跡などが発掘されている。
「纏向遺跡」とカーナビに入力して着いたところは、どうやら宮殿の跡ではないらしい。通りすがりの住民に「纏向遺跡はどこですか?」と聞くと、「ここら辺一帯みんな纏向遺跡です。」とのこと。後で調べると東西2㎞、南北1,5㎞もあるという。車で住宅街と農地をぐるぐる周り、団地のすぐ横にあるお目当ての「辻地区」にたどりついた。広場に1mほどの柱が数十本、二棟分立っている。思わずその十数メートル虚空を見る。卑弥呼なのかなにかは分からないが、3世紀ごろここに建っていたはずの、出雲大社型のものが一棟、伊勢神宮型のものが一棟、私の脳内に「再建」された。
果たして「魏志倭人伝」のなかの「邪馬台国」とはどこにあったのだろうか、というのは古代史最大にして、おそらく永遠の課題であろう。「ヤマタイ」=「ヤマト」とか、「ヒミコ」=「日の巫女」=天照大神などという、一見「語呂合わせ」に思えるのも興味深いが、吉本は「古事記」を分析しつつもそれらをとことん追求はせず、日本史上最初の人物名となる「卑弥呼」が女性で、巫女であることに着目した。
わたしのかんがえでは〈巫女〉は、共同幻想をじぶんの対なる幻想の対象にできるものを意味している。いいかえれば村落の共同幻想が、巫女にとっては〈性〉的な対象なのだ。巫女にとって〈性〉行為の対象は、共同幻想が凝集された象徴物である。
卑弥呼はしずかちゃん?
これを私流に理解すれば、巫女とは男社会における「マドンナ」である。それは「聖なる」存在でありながら、「性的」な存在でもありえる。それを男社会でだれのものでもない存在として、言い換えれば「聖なる性的存在」を共同で奉ることによって、連帯を形成し、農耕社会における外敵を防ごうとしたと理解する。連れてきた七歳の息子が、「ドラえもん」のコミックをカバンから取り出したので、ふと思った。
卑弥呼は「ドラえもん」におけるしずかちゃんである。それはしばしばシャワーシーンという「性的」な場面を見られつつも、優しく強く気高い「聖なる」存在である。そして腕力に訴える個人事業主の子、ジャイアンも、金銭を誇示する社長の子、スネ夫も、何もできなくてもドラえもんを有するサラリーマンの子、のび太も、しずかちゃんという「卑弥呼」に憧れる。
そして腕力で、財力で、ドラえもんの道具で各々彼女を助けようとする。彼女を中心に様々な階層の人間が行動を一にするのだ。さらにいうなら女子キャラは彼女しかいない。卑弥呼は二人いてはならないのだ。そのことを吉村は多少難しい言葉で解説しているのだろう。
サホ姫とジャイアン
纏向遺跡が卑弥呼の王宮であったかいなかとは別に、「古事記」によれば大神神社を創建したという第十代崇神天皇の皇子、第十一代垂仁(すいにん)天皇も纏向に王宮を置いていたともいう。史実であれば卑弥呼の時代以前の1世紀ごろとされる。皇妃のサホ姫が実家に戻った時、実の兄に自分と天皇とではどちらが好きかと問われたサホ姫は兄を選んだ。「近親相姦」というタブーが大陸から儒教を通して入る以前は何とも大らかだったのだろう。
そして兄の指図で天皇を寝所で殺すように言われ、刀を握ったがどうしても振り下ろせず、夫である天皇に事情を打ち明け、兄のもとに逃げた。天皇は皇妃の兄を撃つべく兵を送ると、姫は胎内にいた天皇の子だけを城外に逃げさせ、兄とともに死を選んだ。それについて吉本はこう解釈する。
『古事記』のかたる原始的な遺制では、サホ姫にとって〈夫〉の天皇は同族外の存在だが、兄サホ彦は同母の血縁だから、氏族的(前氏族的) 共同体での強い〈対幻想〉の対象である。そしてサホ姫は氏族的な〈対幻想〉の共同性が、部族的な〈共同幻想〉にとって代られる過渡期に、その断層にはさまれていわば〈倫理〉的に死ぬのである。
ここで彼のいう「対幻想」というのは、たとえばのび太が、スネ夫が、ジャイアンが、それぞれしずかちゃんと二人だけの世界を思い描くことである。みながそれぞれの「対幻想」を持ちつつ抑えることで、「みんな仲間」という「共同幻想」を描くことができたが、よく考えるとしずかちゃんは血のつながった姉妹ではない。登場人物の子どものうち姉妹がいるのはジャイアンのみである。
ジャイアンは大の妹思いであるが、サホ姫が血族の兄を選んだのは、ジャイアンがしずかちゃんというみんなのマドンナとしての「共同幻想」以前の、血縁ある異性を重んじる「対幻想」を選ぶようなものなのかもしれない。吉本はこの兄弟姉妹の血縁関係に基づく「対幻想」が拡大し、コミュニティ内で血縁とは関係なくとも結びつく「共同幻想」に発展したと考えたのだ。
唐古・鍵遺跡の「呼び寄せパンダ」
「古事記」によると、垂仁天皇とサホ姫の皇子は、大きくなっても話ができなかったという。そこで大国主命が夢枕に立った。以下は吉本の文の引用である。
ここに天皇(垂仁) は心痛して、床について寝ると夢にあらわれたものがいうには、「わたしの神殿を天皇の住居とおなじように建立すれば、子はかならず言葉が喋言れるようになるだろう」とこういうので太卜(ふとまに)の占いによって「どこの神の意でしょうか」と探ってみると、ここでたたっているのは出雲の神の意であった。
そしてできたのが出雲大社だというのだが、実は垂仁天皇は伊勢神宮を最初に建てさせたともいわれる。ただ、纏向には建物が復元されていない。この時代の高層建築とはどんなものだったのだろうかと気になる。そこで纏向から大和川を下ること約7㎞、田原本町の唐古・鍵遺跡に向かった。賛否両論だが、こちらには土器に描かれていた高床の楼閣が推定復元されている。
二階建ての軒先にゼンマイのようにくるりと回転した装飾のある、なんとも不思議な楼閣だが、本当にここにあったのかどうかは定かではない。しかしここにいたであろう弥生人がその当時このような建物を描いたというのは事実である。
これがあることで弥生時代の建造物の認識が固定されてしまうおそれはある。しかし隣接地に道の駅ができ、この公園で遊ぶ親子連れたちがたくさん訪れることで、まずは弥生時代の「奇妙な」建築から始まって、巨大な環濠の跡がそこここに見られるのを確認すれば、ここが佐賀の吉野ケ里と並ぶ倭国有数の「城郭都市」であり、そうなったのも蓄えのきく米をもつ豊かな土地柄だったため、外敵から村全体を守らねばならなかった必要性が見て取れる。考古学に対する関心を高めるきっかけの「呼び寄せパンダ」的役割を果たすのがこの楼閣であろう。(続)