奈良市のゴールデン・トライアングル? | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

奈良市の「ゴールデン・トライアングル」

 私が「奈良市のゴールデン・トライアングル」と勝手に呼んでいるエリアがある。奈良を初めて訪れる訪日客が行く東大寺、興福寺、春日大社の三カ所のことだ。いや、正確に言えば奈良公園に囲まれたこれらの寺社といってもいい。日本人は「奈良」というと寺であるが、訪日客、特にアジア系訪日客にとっては奈良=鹿なのだ。北海道のような自然ならともかく、千以上もの鹿が町中を堂々と闊歩するのはここぐらいなものかもしれない。

 このトライアングルの「主人」は、今は鹿であるがもともとは貴族の中の貴族、藤原氏だった。試しに平城京の地図を見てみると、トライアングルが位置する北東部だけ突き出ているのが確認できるが、この部分のほとんどが藤原氏の縄張りだった。春日大社は藤原氏の氏神であり、興福寺も藤原氏の菩提寺である。そして東大寺は藤原不比等の娘、光明子が後に光明皇后となり、聖武天皇に懇願して実現させたものと言われる。つまり奈良市のゴールデン・トライアングルは、「フジワラ・トライアングル」でもあったのだ。

また鹿が戯れるのも春日大社の主祭神、タケミカヅチが常陸の鹿島神宮から白い鹿に乗って飛んできたという伝説に基づくという。出雲人意識の高い私は春日大社に行くのに抵抗がある。タケミカヅチだけでなくフツヌシの祭神となっており、「古事記」によるとこの二柱の神々が出雲に国譲りを迫り、国権を奪ったというからだ。今回初めて六歳の息子を連れてきてこの話を伝えた。私は一礼こそしたものの手を合わせてまで拝まなかった。息子には拝むかどうかは自分で決めるように言ったら拝まなかった。六歳でもやはり出雲族の後裔だと思っているのかと感心すると同時に、いつかこのわだかまりが消え、素直に春日大社や鹿島神宮で手が合わせられるような日が来てほしいと思いながら春日大社を去った。

鹿野苑(サールナート)から興福寺中金堂へ

それにしても鹿だらけだ。息子は鹿せんべいを買った先から鹿に囲まれ、怖くてせんべいを手放した。するとあっという間にせんべいは鹿の胃袋に収まった。

ここの鹿は野生動物ではあるが、お産などのときには「鹿苑(ろくえん)」なる財団法人で保護される。この漢字を見てピンときた。ここは「鹿野苑(ろくやおん)」ではないか!鹿野苑とは釈尊が悟りを開いてはじめて教えを説いた、シカの多く生息する園をいい、現在のサールナートという町にあったという。佛都奈良のこのトライアングルは、日本版六野苑でもあったのだ。

猿沢の池から興福寺の境内への石段を上ると、礎石がたくさん並んでいる。ここにかつて南大門があったからだが、礎石の数がその規模を物語っている。そして今は芝生で鹿が草を食んでいる。

正面に2018年に再建されたばかりの中金堂が目に入ってくる。色彩は丹青に金をあしらった、唐の様式=天平様式だ。真新しいためか、歴史は感じさせない。だが創建当時はこのような感じだったかとも思う。

実はこの中金堂の木材として使用されたケヤキの巨木は国産ではない。日本にはこれほどの木はすでにないため、アフリカはカメルーンで伐採されたものだという。710年の平城京遷都とともに藤原京から移ってきたこの寺は、各国の様式を導入してきたが、まさかその千二百年後にアフリカの木材を使用するとは思ってもみなかったろう。

 

佛教の在家メンター、維摩居士

東金堂に向かう。薬師如来に日光・月光菩薩像や四天王像等、古代から中世にかけてのさまざまな様式の国宝・重文の佛像が並ぶが、ここで最も特徴的なのは鎌倉時代につくられた木造維摩居士坐像と文殊菩薩坐像である。椅子にあぐらをかいて何かを説こうとする寄木造のこれらの坐像は、聖徳太子が編纂した「三経義疏」のうちの「維摩経」に基づいたストーリーを伝えてくれる。

このコンビのうち一般的に有名なのは「三人寄れば文殊の知恵」で知られる智慧の佛、文殊菩薩だろう。それに対する維摩居士は在家信者であり弟子でも菩薩でもないが、慈悲のこころをもつメンター的立場である。あるとき釈尊が、大病を患った維摩居士の見舞いに行くよう自らの十大弟子に言うのだが、みなかつて維摩居士にやり込められたことがあるため、煙たがって行こうとしない。そこでさらにハイクラスの弥勒菩薩に行かせようとした。すると五十六億七千万年後に現れて救うとされる弥勒菩薩にさえ、維摩居士は扱いにくい様子だ。以前、元気な時に議論をしたらこんなことを言われたからだ。

「弥勒さん、おたくは将来悟りを開くことが確約されているそうですが、そりゃおかしい話です。佛教では過去も未来もなく、あるのは今の今だけのはずでしょう?」

大乗佛教で将来の悟りを確約する「授記」というシステムの矛盾をついた維摩居士だが、さすがの弥勒菩薩も困ってしまったため、見舞いに行きたくないというのだ。個人的にはこんな苦手なことから逃げる弥勒菩薩の人間臭さや、釈尊といえども断る弟子たちの「ヘタレ」度合いが大好きだ。結局最後に釈尊が維摩居士のもとに送り込んだのが智慧の文殊菩薩である。この世紀の「対決」を一目見ようと、佛弟子たちもついていった。ほとんど観戦気分だったろう。

 

慈悲の維摩VS智慧の文殊

「慈悲の人」にして大金持ちの維摩居士は庶民にはめっぽう優しく、稼いだ金を惜しみなく分け与え、人を思いやり寄り添うが、菩薩や弟子には歯に衣着せぬ物言いだ。一番弟子の舎利弗が、「この部屋は空っぽで椅子もないですね。」というと、

「あなたが求めるのは椅子なのか、真理なのか?」とジャブをかます。「も、もちろん法です。」と答えると「しかし真理は言葉や形であらわせるものではない。」と反撃する。在家の彼が高弟に教えを垂れるのが痛快である。また文殊菩薩が維摩居士に病気の原因を聞くと、

「自分のフィルターを通してしか世界を見ることができない「痴」と、つまらないことにこだわり続けてしまう「有(う)愛」が病気の原因です。」と答える。いちいち面倒くさい病人だ。全くもって釈尊が言いそうな口ぶりだ。しかしこれは維摩居士ならずとも、すべての人が苦しむ原因でもある。つまり世の中の全てが「空」であると分かっていないから悩むのだ。「空」とはあれはいいがこれはダメという分別をなくすことである。

「空」について私の納得いった説明は、「カレーライスは空」というたとえだ。目の前にカレーライスがあるとする。しかし「カレーライス」が存在するのではなく、ご飯とカレールーと人参とジャガイモとタマネギと肉から構成されたものがあるにすぎない、というもののだ。つまり私という人間が存在するのではなく、家族やコミュニティ、会社などがあって、その構成要素、いわば「材料」「部品」として私がいるのであって、「私という人間」は周囲との関係のうえで成り立っているにすぎない、ということだろう。

 面白いことに見舞いに来ているはずの智慧の菩薩、文殊が病人のはずの維摩に質問をしまくる。例えば「菩薩の私が悟って如来になるにはどうすればいいか?」と在家の大金持ちの維摩に聞くと、

「他宗教との他流試合から学ぶこともあるし、また佛の悟り、世の人々のこころの動きにもヒントがある。」そして「自らの汚辱に満ちた迷いの世界を生き抜け。」「土着宗教や匠の技、土着の知恵などを極めて人を幸せにせよ。」などとのたまう。これぞ在家でも救われる大乗佛教のエッセンスだ。

最後に諸佛も一緒になって「不二法門」について各自の意見を述べはじめた。「不二」とは善悪、美醜などの対立概念を、それぞれ異なるものとして見るのではなく「善があるから悪もある。善がなければ悪もない。」「美があるから醜がある。醜がなければ美もない」というように対立をセットで見るコンセプトだ。そして「法門」というのは佛教における本当の真理を表す。

諸佛の意見を文殊菩薩はまとめていう。「つまり、不二法門とは、口では表しきれないものです。では、維摩さん、あなたの見解を聞かせてください。」

というと、維摩は黙ったまま答えない。沈黙が続く。すると文殊菩薩は「参りました!」と兜を脱いだ。つまり、維摩は身をもって「口では表しきれない不二法門」を実践したということだ。日本社会で最近まで通用してきた「腹芸」という非言語コミュニケーションのルーツは維摩居士と文殊菩薩にあったのかもしれない、と思う。それこそ「無言の舌戦」を聞かせてもらった気持ちになって外に出た。

 

五重塔と僧侶たち

東金堂から出ると、五重塔が地面に大きな影を作っていた。高さ50メートルを誇るこの塔は、15世紀、室町時代のものだが、戦国の世を生き残り、泰平の江戸時代を無事に過ごした後、明治維新とともにこの塔、そして寺全体が危機に見舞われた。神佛分離令に伴う廃佛毀釈である。

このとき興福寺の僧はみな無抵抗のまま春日大社の神職に「転職」することになった。そもそも興福寺は長い間藤原氏の支援もあり、事実上大和一国を管理していた。そのため維摩経のみならず興福寺と並ぶ法相宗の大本山としてアカデミックな佛教研究所としての地位を守り続けてきた。また江戸時代を通して奈良最大の寺社勢力で、寺領は約二万石、小大名規模の世俗勢力であった。

そのためだろうか、江戸時代は僧侶の間でさえ信仰のための寺院としての意識は低かったようだ。それを証明するかのように廃佛毀釈に真っ先に応じて還俗を名乗り出たのが当時の首座だったりする。江戸時代の僧侶たちにとって、寺院とは世俗の幕藩体制の末端機関にすぎなかったとしたら、郵政省職員が民営化された会社に残るような感覚で新しい時代に適応していこうとしたのだろう。

高校レベルの日本史で学ぶ江戸時代の文化史で、佛教文化に関する項目がほとんどないのも納得である。佛教者たちのトップの興福寺さえこのような体たらくだったからだ。

目の前の五重塔も二束三文で売却されつつあったが、塔の金具を取り外して売ろうとしても面倒なので捨て置かれていたところ、熱狂的な廃佛運動が収まったため、現在なお我々の前にその身を保っている。

廃佛毀釈の生き残り。売られかけて売れ残って捨て置かれたために立ちすくみ続けるこの塔は、今なおこの佛都一の高層建築であるという。(続)

 

 

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