薬師寺であった最強のガイド | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

日光菩薩と月光菩薩

バスで薬師寺を目指して失敗した。ルートは正しいが、境内の北西に位置する「西ノ京駅」前に停車したのだが、お寺の裏口からしか入れないため、池に映える堂々たる双塔の伽藍から入ることができない。なんといっても薬師寺というとあの塔なだけに残念である。

四時ごろ裏口から入ってようやく金堂、東塔、西塔などにお目にかかることができた。白黒のモノトーンな色調の法隆寺や法起寺のように「斑鳩系」なのは、唯一現存する東塔だけである。そしてその他は丹青や金銀をあしらった唐風の華やかな色調が全体を覆う。

食堂(じきどう)から大講堂に入る。私にとってここの一番の見ものは佛足石(ぶっそくせき)である。佛像がガンダーラでできる以前、畏れ多くもみほとけの姿を表現することは憚られたため、人々はその足跡を彫ることによってほとけの教えをかみしめたというが、それが目の前にある。立派な塔も、輝かんばかりの佛像もありながら「足の裏の彫刻」という控え目で目立たないものを大切にするのは、大乗仏教以前の伝統が息づいていて興味深い。

金堂にまわる。本尊の薬師如来はその名の通り医療の神として各地で民間信仰的にも人気を博してきたが、ここのほとけはかつて黄金色に輝いていたはずだ。目も眩むほどの輝きは時の流れとともに薄れ、正面の入口から入る日の光に反射して漆黒の鈍い光を放っている。ふくよかな薬師如来だけでなく、左右の脇侍(わきじ)の日光菩薩と月光(がっこう)菩薩の控え目な腰のくびれも美しい。白鳳のほとけの美の基準が唐であったことが明らかに見て取れる。

ふと思いついて六歳の息子に言った。

「これはお前のほとけさんだ。日光と月光。『日』と『月』でお前の名前の『明(あきら)』になる。お前の名前はこのほとけさんから来とる。」

ほとけさまの前で口から出まかせもいいとこだが、どうやら息子は感心していたようだ。

 

東院堂聖観音像

そして時間の関係で東院堂に向かった。

閉門時間ぎりぎりで東院堂にすべりこみ、こちらも白鳳佛の究極の美をたたえる聖観音像を拝む。観音様というのは衆生を救うために十一面観音、千手観音、不空羂索観音、如意輪観音等三十三の姿に変化するというが、そのデフォルトの形がこの聖観音という。

それにしても薬師寺の白鳳期のほとけたちは極めて完成度が高い。そして圧倒的な美しさを誇る。逆に飛鳥佛のもつ「ヘタウマ」的な味のある個性は少ない。飛鳥佛には手を合わせて拝むが、白鳳佛には手を合わせて美を鑑賞する自分に気づく。薬師寺は寺であり、美術館ではないとわかっていても、ここでは美術鑑賞にふけってしまうのだ。

そしてここで白鳳時代から建ち続けてきた東塔に向かった。

東塔で思い出したお坊さんの話

おりしも東塔は十数年の長きにおよぶ修復工事を終えたばかりで、内部の心柱まで拝むことができた。そして外に出ると、久方ぶりにお目見えした塔の先端に目を凝らし、少年時代を思い出した。

私が初めて薬師寺にお参りしたのは1985年9月、中学二年生の修学旅行だった。その時のことはよく覚えている。太い眉毛に黒い袈裟のお坊さんが冗談を交えながら佛教とこの寺の意味を解説してくれたからだ。

お坊さんは東塔の先端を指さし「あそこが見えますか?」と聞いた。いがぐり頭とおかっぱの私たちが一斉に先端を凝視するが、見える由もない。するとお坊さんはレリーフ「水煙」に飛天が笛を吹いている様子をパネル写真で見せてくれた。そして明治時代にあれを見つけたアメリカのフェノロサは、天平の音楽を奏でる飛天の様子が「瞬間冷凍」された様子が見えるようだという意味で「凍れる音楽」と評したという話をしてくださった。

実はそれは史実ではなかったようだが、ポイントはそこではない。お坊さんの話は中国山地の山奥からやってきた我々いがぐり頭とおかっぱにとって、もっと大切な話をしはじめた。「昔の職人さんたちは、千二百年後の君たちが見えても見えなくてもごまかさず細部まできちんと仕事をした。君たちは先生や親御さんが見ていないからといって、いい加減なことをしてごまかしていないか?」そして「私なんかしょっちゅうお経をごまかしとる。」と言って笑わせる。

 

ガイドの中のガイド

今思うとこの時、つまり1985年9月後半は、ニューヨークでプラザ会議が開かれ、その後の円高ドル安とバブル経済に伴い大量の日本人が浮かれ気分で外国を闊歩しだす時代の幕開けだった。勤勉な「はず」の日本人が堅実な生活から派手で浮ついた生活を求めだしたころだったのだ。お坊さんはそれを予見していたのかもしれない。そしてこれからの将来を担ういがぐり頭やおかっぱに、「人に見られているからきちんとやる」のではなく、「きちんとやるべきことはごまかすな、ひいては自分自身をごまかすことはできない」というメッセージを託したかったのかもしれない。

これが佛教のどのような教義や説話からきているかは分からないが、お坊さんはいがぐり頭たちにとって大切なのはフェノロサや美術史ではないことをはっきり認識していたはずだ。そのお坊さんが薬師寺の「名物坊主」故高田好胤(こういん)管長であったことを知ったのは高校3年のころだった。

私が知る限り、本物のなかの本物の通訳案内士といえば高田管長である。おそらく通訳案内士資格はお持ちではなかったはずだが、プロの通訳案内士の技を自由に使っておられた。目の前にみえる事物から日本を語る手法、と相手を見て話題を自由に変えるセンスと話題の引き出しの豊富さ、人をひきつけるユーモア、佛教を通して日本のこころを伝えること。そしてそのすべての基本が、厳しい佛門修行であったことはいうまでもない。

今お会いできたら敗北感に打ちひしがれるほどの名ガイドだ。

西塔で気づいた社会事業家としての高田管長

白黒の東塔の向こうの西塔は極彩色である。私の生まれた1971年当時、この塔はなかった。それだけではない。東塔と東院堂を除くとめぼしい建物はなかったはずだ。それでは東大寺、唐招提寺、春日大社など著名な寺社が目白押し奈良で、参拝客数のランキングは低かったに違いない。観光客は昔も今も写真写りの良くないところはカットするものだから、美しいとはいえ白黒の塔一棟では地味すぎる。それが1985年に初めて訪れたときには目の前の西塔も金堂も輝かんばかりに復元されていた。そしてそれを成し遂げたのが先述の高田好胤管長だった。

戦後もかなりの間、ここの国宝のほとけたちも「仮金堂」なる一時しのぎの建屋で仮住まいをしていた。それをなんとかしようと発願し、一生をかけて今の規模まで建て直した高田管長の手腕は極めてユニークだ。一言でいうなら社会起業家的な精神を発揮したともいえる。

伽藍再建の布施を受けるために、何千万単位で出してくれそうな大企業をまわろうという案が、当然のこととして検討されたという。しかし管長は、あえて参拝者一人ひとりに写経を納めてもらうことで、千円から数千円の布施を受け付けることにした。時はあたかもオリンピック後の高度経済成長のひずみがあちこちで現れた昭和四十年代である。このままいけば日本は「物で栄えて心で滅ぶ」と予見したからである。

僧侶である自分たちが宗教行為である布施と経済行為であるカネ集めをはき違えるわけにはいかない。そこでここから全国民的な写経運動を展開した。さらに当時の奈良ではありえなかったことだが、修学旅行生を大量に受け入れるべく、旅行会社とタイアップして薬師寺に来てもらった。観光地の土産物屋や食堂や旅館と同じセンスを伝統ある寺院の管長が持っていたというのが驚きである。ただ管長は大阪人であるといえば、多少納得はいく。

 

批判の声もどこ吹く風

「佛教をメシの種にして」と、白眼視する人々、ひいては公然と批判する人々も少なくなかったというが、伽藍復興という目的達成のためには、雑音もどこ吹く風と受け流した。同時に写経をすることで現代人に自らを振り返る時間を持ってもらうこと自体がもう一つの目的となっていったのかもしれない。さらに言えば、大乗佛教では般若心経等を読んで、書く行を大切にしてきた。佛教の普及によって荒みつつあるこころの救済事業と、布施による伽藍再建事業が一挙両得にできる。高田管長をプラグマティックな「社会起業家」と呼ぶにふさわしいと思う理由はそこにある。

そういえばこのお寺で修行した僧侶のなかにも社会起業家がいたのを思い出した。聖武天皇のもと、東大寺の大佛および大佛殿を建立するのに尽力し、多くの人々の布施や労働奉仕を指揮した行基である。行基はそれまでのところですでにため池や堀、架橋などの土木工事を指揮したり、福祉活動を行ったりしてきた。正当な僧侶たちからは批判されつつ、社会事業をやりぬいたのだ。坊さんというのはただ修行したりお経をよんだりするだけではない。社会変革と人々の心を救済するという役割を果たす、マルチプレイヤーであってほしい。

そのような意味でも行基が修行した薬師寺で千二百年後に現れ、写経を通して現代人に自分を振り返らせた高田管長は、国家佛教としての薬師寺の役割を20世紀になお果たしたといえるだろう。

 

玄奘三蔵法師と薬師寺

閉門時間になった。どうしても一カ所行けないところがあった。バス停近くの玄奘三蔵院伽藍である。玄奘が命がけの冒険で唐からインドに赴き学んだのは「唯識論」、すなわち世界にあるすべてのものは、実は存在しない。全世界が我々の「こころ」の反映であるとする思想であった。そしてその唯識論の日本における「研究所」だったのが薬師寺と興福寺だったため、それを記念してここに玄奘三蔵院伽藍を新たに建設したのだ。

ちなみに行基の師、道昭は遣唐使の一員として唐で玄奘に師事し、法相(ほっそう)宗を学んだ。つまり行基はあの三蔵法師の孫弟子といえる。唯識論に関しては後に興福寺を訪れた際にお話しする。

ところで後になって分かったことだが、ここではコロナ禍において毎日の勤行で病魔の退散と早期の終息を祈っているという。そもそも奈良佛教とは、個人の救済を標榜する鎌倉佛教と異なり、国と民の安寧を祈ることからきている。単なる美術館でも哲学研究所でもないことに思い当たったのは境内を出てからだった。(続)

 

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