興福寺国宝館ーきわめて個性的なほとけたち | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

国宝館へ

興福寺が宗教的役割以上に世俗的な統治機関として、また研究所としての役割を果たしてきたことは先に述べたが、現代人が興福寺に求めるのは救いでも悟りでもなく、日本最高級の佛教美術の精華に圧倒されることだろう。その「佛教美術館」としての名に恥じないコレクションが国宝館にある。

それほど面積は広くない館内だが、高さ五メートル以上の木造千手観音菩薩立像(鎌倉時代)を中心に、白鳳・天平時代の名だたるものがずらりと並ぶ。

例えばアンパンマンの原型ではないかと思わせるような真ん丸顔の佛頭。もとは飛鳥の山田寺のものだったが、興福寺に移され、鎌倉時代から室町時代まで東金堂の本尊として安置されていた薬師如来である。残念ながら火災で焼失したが、頭部だけで1メートル近くあるということは、全体では大佛級の大きさだったに違いない。

 

十大弟子像

次に脱活乾漆像の白眉、十大弟子がお目見えする。真剣な顔、穏やかな顔など、一人ひとりの表情が異なり、飛鳥佛にはなかった表情のリアルさが感じられる。飛鳥大佛の時代からわずか一世紀あまりで、ここまで佛師の技術が上がったかと思うと驚嘆するほかはない。ただ、彼らはみなインド人だったはずだが、モンゴロイド顔となっているのはリアリズムと言えるか微妙ではあるが、おそらく自分たちと同じ顔をしてなければかえって違和感を覚えるのかもしれない。

ところで十大弟子というと、「維摩経」に書かれている、在家の大金持ちにして慈悲の人、維摩居士との関係が気になる。維摩が病気になったので釈尊が十人弟子に見舞いに行くように促したが、誰一人としていこうとしない。その理由は、かつてみなかつて議論でコテンパンにやられたことに根を持っているからなようだ。そして維摩の「正論」度合いがふるっている。

まず、落ち着いた眼差しの舎利弗(しゃりいほつ)に対しては「静かで清潔な環境で座るだけが坐禅ではない。雑音だらけでごちゃごちゃした世の中でもこだわりを捨て普通に生きること。これこそ本当の坐禅ではないか。」と、正論を述べる。

次に修行に修行を積んだ結果、神通力に秀でた木蓮に対しては、「在家信者に出家のやり方を言っても意味ない。ありのままの姿を説くべき。」と手厳しい。

そして慈悲のこころで施す大迦葉(だいかしょう)には、「貧乏な人だけに施すというのはこだわりだ。乞食行(こつじきぎょう)は相手に捧げるのではない。相手と自分の境をなくせばただ物が動いただけということに気づくべきだ。」と、これまた正論。

説法上手の富楼那(ふるな)には、「説法名人というのは自分の考えや感情、意見などは置いておかないと。まず相手の懐に入り、寄り添ったうえで話すことではないか?」と饒舌な人間にとって痛いところを衝く。

釈尊の弟子は一説によると1250名いたそうだが、そのトップ1パーセント未満の彼ら十人弟子でさえ、たじたじとなった相手が維摩だったのだ。この話を聞いてから十大弟子像を見ると、澄ましてみえる彼らだが、実は自分の得意領域に入ってきて批判する人には会いたくないという人間臭さが感じられ、面白い。心なしか誰かを煙たがっているような顔に見えてくる弟子もいる。そんな表情を作るのに成功したのも、これが繊細な造形ができる乾漆像だからだろう。

(wiki-mediacommonsより)

八部衆像と佛教界のヒエラルキー

興福寺で最も人気の高い佛像はやはり阿修羅像だろう。こちらも脱活乾漆像でリアルな、少年らしい悩みや愁い、一抹の不安までをもたたえたその表情の完成度は極めて高い。

ところで阿修羅というのは佛教においてどれぐらいの立場なのだろうか。江戸時代に「士農工商」という身分制度があったように、佛教界は次のようにランクづけられる。

①悟りを開いた如来

②如来予備軍の菩薩

③帰依しない者を強制的に佛教に導く明王

④佛教の守護神、天部(貴顕天部/武装天部)

 このうち、如来と菩薩は主に北インドの支配層だったアーリア人の信仰に基づいているが、明王と天部は南インドの被支配層のドラヴィダ人の信仰―バラモン教・ヒンドゥー教の神々を取り込んでいる。つまり佛教界は古代インドにおける南北の民族問題、宗教問題を反映しているとみてよい。さらに、同じ佛像でもなぜ優しい人間の姿の佛様もあれば、怖い顔の佛さまもあるかというと、そのルーツが異なるからだ。つまり人間の姿をしているのはアーリア系、怖い姿のものはドラヴィダ系のものが多いという。

 また同じドラヴィダ系守護神でも明王は主に平安時代の密教の神佛となったのに対し、奈良佛教は天部が多い。その中でも中性的、または女性的で温和な「貴顕天部」と、鎧兜を身にまとったり、武器を持ったり、後ろに炎がめらめら燃えている「武装天部」に分かれる。いわばドラヴィダ系の「貴族」と「武士」といってもよい。

 国宝館における「貴顕天部」としてはバラモン教の最高神にして宇宙の創造神「ブラフマン」であるが、釈尊に佛教を広めるよう勧めたという「梵天像」と、衣のような礼服の下に甲冑をまとい、釈尊の修行時代から従ってきた「帝釈天像」がある。そしてその帝釈天と激戦を繰り広げた戦の神が八部衆の中で、いや、興福寺の佛像の中でも最も人気の高い阿修羅像なのである。

 このように、佛教界のヒエラルキーを知っていれば昔のインドの抱えていた宗教問題、民族問題という「対立」だけでなく、佛教がいかに土着宗教を佛教化してきたかが分かってくることだろう。これを日本の神道にたとえると、天照大神を最高神とする大和族が、大国主命を最高神とする出雲族や熊襲、蝦夷などを従え、大国主命や須佐之男命等出雲系や熊襲、蝦夷の神々を、神道を守る神々として「天部」においたようなものだろうか。

 

天燈鬼立像と龍燈鬼立像

 興福寺は何度も焼けたが、その都度復興した。ただその中でも平氏による南都焼き討ちはすさまじかったという。その後鎌倉時代に復興した際につくられたもののなかでユニークなのが、佛像ではなく「鬼」の像だ。佛像において「鬼」は「邪鬼」として四天王などに踏みつけられる存在であったが、それが単独で、しかも二体あるのがこの国宝館である。その名を天燈鬼立像と龍燈鬼立像という。

 運慶の指導の下、三男の康弁が彫ったというが、そのリアリズムには驚かされる。そのうち天燈鬼は赤く、片手で口を開けて叫びながら必死になって灯籠を持ち上げようとするエネルギーに満ちている。そして色褪せているとはいえかつては青だったことが確認できる龍燈鬼は、頭の上に灯籠が置かれ、押しつぶされそうなのに、歯を食いしばって耐えている。赤鬼と青鬼、上に持ち上げるベクトルと下に押しつぶされるベクトル、口を開けるのと歯を食いしばる阿吽の呼吸など、対照的な様子であるが、共通しているのはこの国宝館のなかで例外的に「苦しんでいる」像だ。

 「鬼」とされたがために押しつぶされ、独立しても罰ゲームのように重いものを持たせられる「カッコ悪い」鬼たちの姿を昇華させたのが「天部」なのかもしれない。佛教社会のなかでも「カースト以下」に追いやられても耐え忍んで佛教を守る彼らにエールを送りたい。

 

無著・世親像

 境内の北西に平家による南都焼き討ちの後に復興した八角堂、北円堂がある。そこで春秋に短期間開帳されると人々がこぞって見に来るのが無著(むじゃく)と世親の像である。目に水晶玉をはめ込んでリアルなことこの上ないが、一見「東洋人」に見える彼らも出身はガンダーラ、すなわち現パキスタンあたりで四世紀ごろ活躍した兄弟である。

 老人に見える人物は無著という兄で、上座部佛教的なコンセプトに飽き足らず大乗佛教に転向した。そして弥勒菩薩から大乗佛教の「空」や「縁起」、そして「唯識」などというコンセプトをじかに伝えられたという。佛教ではこの世の全てに実体がないとはいうが、それを感知する「識」、すなわち心のずっと奥のほうにある「無意識なセンサーの大本」だけは存在する、というのだ。

「唯識」というと薬師寺も日本の「唯識」研究の本場であるが、ここで無著が学んだのは、人々の意識は次のように二段階に分かれているということだ。

表層:視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚+それらがもたらした情報をもとに判断する「意識」

深層:表層意識の根本となる「末那識(自我)」+阿頼耶識(自我さえ意識しない無意識状態)

 人間が悩み苦しむのは表層意識にとらわれているためであり、それから解脱するには意識の根本の「阿頼耶識」を清浄に保たねばならない。そのために行うのが善行とヨガであるという。

 無著はこの教えを最初は抵抗する弟、世親に伝えようとしながらも拒まれたが、世親もついにこの教えの真理に気づいた。そして弟は唯識論を中心におく思想「法相宗」に大きな影響を与え、それが玄奘三蔵法師によって唐に、そして日本にわたり、この興福寺の中心的な思想になったのだ。ちなみに世親は浄土教のコンセプトを世に出しもしたので、後に浄土真宗の開祖とされる親鸞も浄土教の「七高僧」として高く評価している。

 北円堂で目の前に立つこの兄弟がいなければ、玄奘三蔵法師も印度にいっていなかったかもしれない。そうすると大乗佛教は存在しなかったかもしれない。そうなるとこの寺院のみならず日本の平安時代以降の佛教はなかったことになる。そのような日本佛教の陰の功労者がこの二人なのだ。(続)